「最終課題:第4回ゲンロンSF新人賞【実作】」提出しました

■書き上げた感想

最終実作は、毎月の自主提出で深めていったテーマに正面から取り組むことになった。具体的に深めた内容については、選考委員に向けたアピール文にも書いたので、詳しくはそこに譲る。

その代わり、講座や合評会で指摘されたポイントをどのように修正したかを、ここに記載する。

  • 一番外側の物語が起伏に乏しい
    • 主人公の行動により、周囲の人間関係が大きく変化する形にした
    • ついでに、新型コロナウイルスの感染が拡大している状況でしか書けないものにした
    • 主人公の行動のせいで、回りの反応がどんどん冷淡になっていく、つらいものにした
    • とはいえ、最後にはわずかな光明を見つけさせている
    • 真理に直面することは、救済である
  • 後輩の「平凡」な文章を示してほしい
    • キュレーションサイト風のものを作中で引用した
  • 今までの作品では、親がひそかに支援していたパターンが多いが、それはよろしくない
    • むしろ敵対者として立ちはだかるようにした
  • 安易にいい話にしようとすることに対する照れがある
    • 照れずにまっすぐな話にした
    • 子ども同士のイチャイチャも書いた
    • 大人の恋愛ではないので、妙な駆け引きがなく、不器用な自分でも書けていたらうれしいなあ
  • 因果律が強すぎる、どんでん返しがほしい
    • 現代パートでも、アラビアンナイトパートでも、主人公が不条理な事態にキレて前に進むように変更
    • 読者にとって、より展開の予測を難しくした
  • 三つ目の物語の層に、何らかの機能が欲しい
    • 一つ目のユダヤ人商人の話は、異質な他者との対話、という小説全体を貫くテーマを導入する
    • 二つ目の騎士の話は、悲恋になるはずの物語をハッピーエンドに方向転換させる機能を持つ
      • つまり、イスマーイールの物語をハッピーエンドに変えたい、と一番外側の語り手に決心させる役割を持つ
      • アラビアンナイトパートが変化し、結果として現代パートも軌道修正される
      • 書きながら思いついたことではあったが、うまくつながった感覚はある
    • 小説全体では、他者の理解を望みながらも、どうしてもすれ違ってしまう悲しみを表現
  • 現代パートのキャラクターをもっと強烈に、特に悪友をもっと嫌な奴にしてほしい
    • 後輩女子をいびるキャラに変更
    • 女叩きが激しい点を強調
    • 主人公に対しても牙をむくように修正
  • 悪友に対して言い返してほしい
    • 論理的ではないが、激昂してどなりつけるようにした
  • 後輩の女の子を守る云々が、主人公の独り相撲に感じられる
    • あえて、すべてが彼の独断というか思い込みであったことを強調
    • 彼が女性心理の理解に乏しいという設定として生きたかも
  • 劇中劇はどの程度外の世界の投影か
    • キリスト教徒の女の子が、後輩女子と重なって見える描写を増やした
    • 二人をつなぐキーワードとして、聖母と指輪を用意
  • 現代パートの登場人物の絡みが少ない
    • ストーリーが進むうちに、カタストロフィが起こるように変更
  • 具体的に何をやろうとしているのかがわからない、フィクションの本質をつく?
    • 現実に向き合ったとき、フィクションを書くことは/読むことは、どのような作用を起こすのか、を書いた
    • 遊びとしてのメタフィクションではなく、創作することの意味や、創作する上での倫理を問う
  • 会話が無機的、遊びが少なく、おざなり
    • 会話のぎこちなさは、童話風の文体とすることで、むしろプラスに働くようにした
    • 現代パートについてもできるだけ修正を試みた
    • ただし、どうしても演説調、説明口調にはなってしまった

 

過去の作品から引き継いだのは次の通り。

  • 語り手の自己言及
  • 自分が文章を書いていることに対する自覚的な態度
  • 自己懐疑
  • 児童文学風の文体
  • 理系的な説明を省いた、ブログっぽい文章
  • アクションシーンは表現が画一的・単調・紋切り型になるのでやらない

 

また、書いているうちに、思いがけずに枝葉を伸ばしたのは次の要素だ。

  • 小説家、クリエイターとして問われる倫理
  • 私小説的な要素
    • 学生時代の思い出
      • 一応モデルは特定できないようにいじってある
    • うまくいかない恋愛
      • 作中では幾分強調、戯画化したが……
      • やりすぎたかな?

 

■で、自信のほどは?

あまりない。書く過程そのものを楽しんだ実感はあるが、現実問題として、自分がこの講座でどこまで成長できたかどうかを、講師に評価してもらう、っていう場になると思う。

そもそもこの小説、SF度が限りなく低いし、僕は今まで梗概は一度も選ばれてない。これで万が一ゲンロンSF新人賞取ったら、というか優秀賞をとっても、とんでもない番狂わせだ。

 

■今の気分

提出した直後なので、どの版が最新だったか、最新版をきちんと提出できたか、幾分不安だ。とはいえ、基本的にはやるだけやったので気持ちとしてはかなりすっきりしている。

しばらくの間は、気が高ぶっているので、なんでもいいので文章を書きたくてたまらないだろうが、まずはペースを日常に戻すことを目指す。そして、小説として書きたいテ―マがお腹の中で十分にあたたまってきたら、また筆を執ることにする。120枚を書いたのは久しぶりだし、それに対する評価が戻ってくる前に書いても、また同じ過ちを繰り返すだけだろう。

ならば、のんびりと夜の時間を過ごしたり、日記を書いたり、備忘録をつけたりして、英気を養いたい。

もちろん、他の人の実作も気が向いたときにさっと読み、8月28日(金)の選考会というイベントを、楽しみに待ちたい。

 

以上。

2019年度ゲンロンSF創作講座第10回(6月19日)受講後の感想

■梗概についていただいたコメント

異教徒の娘とその似姿に恋をした少年スレイマーンの話 – 超・SF作家育成サイト

 メタを狙っているのだろうが効果が不明で、何を狙っているのかがわからない。何が言いたいのだろう? フィクションの本質をつこうとしているのだろうが、この梗概だけでは伝わらない。虚構の虚構性、虚構の歴史、二重に語ることをやりたいのだろうが、これだけではわからない。

 

■実作についていただいたコメント

できることなら、もう一度白夜の下で – 超・SF作家育成サイト

 饒舌体が身についておらず、どっちつかずという感じ。とはいえ、自我がはっきりせず離人感のあるところは面白いので、そこを長所として伸ばすのがいいのではないか。実は宇宙船のほうが夢であるとか、非現実のものであるかもしれないというあいまいさがあり、そこに特化したほうがいい作品になる。

 自分が書かれたものかもしれない。自分は存在しているかどうかがわからない。テキスト的なもの、メタ的なものであるという可能性を追求しているが、このままではありきたりである。こういうのはもっと洒脱にやるべきで、ディティールにも魅力が欠けている。

 特に会話に魅力が欠けていて、キャラクターの会話が情報を伝えるだけの機能を担っているだけ、つまり事務的。会話をしなければならないからしている感じがあり、もっとサービスする必要がある。

 これだけだと、ごくありがちな設定なので工夫が必要。

 

→小浜氏より2点。感謝します。感じられた可能性に対する点、ということだった気がする。

 

■揚羽はな氏と九きゅあ氏からの実作に対するコメント

1.青年の妹に対する思いやりがいい。(多分、現実世界で壊れてしまっている)戦艦のAIに、人間がしてあげられることと言えば、たしかにそういう指示しかないよね、と思いました。人間とAIの役割が逆転しているようなストーリーの中で、本来の役割に戻った安心感もあります。

2.憧れの先輩と対等になろうとする青年の、自分の成長に対する確たる自信が現れていて、読後感はとてもよかったです。

3.(ここからちょっとな点)青年と先輩を「学園」でであわせると、ちょっとギャップがありすぎのような気がしました。戦場ー学園の間と、想定年齢がマッチしていないような

4.絵画に合わせてコートを出してきたのだと思うのですが、このストーリーの中で特に重要視するものではないと思います。前半の記述は不要かもしれません。ラストでは、青年も成長しているし、先輩も大人になっているので、特に違和感はありません。

 

勝手な感想を書かせていただきましたが、宇部さんのお話はとても読みやすく、読後感がよいのが特徴ですね。

いつも感想を書いてくださっているのに、こんな程度のフィードバックですみません。

残るは最終実作ですけど、講座が終わっても、宇部さんの作品は読みたいです!

あ、そうそう。

私、宇部さんってエッセイが似合うんじゃないかと思っています。ブログとかも、自然体でいい感じです。

 

 講座が終わっても読みたいと評価していただけるのは、本当にうれしいことだ。感謝します。

(それと、九きゅあ氏からは梗概について、日本編を入れると方向性がかすむので、イスラーム世界のほうがいいのではないか、ともコメントをいただいた)

 

■雑感

 思うに、ゲンロンSF創作講座に向いているのは、梗概が選ばれなくてもある程度提出できて、作風にある程度の幅があり、毎回傾向を変えることで自分の伸ばすべき方向を探ることができる人、なのではないだろうか。毎月作品を書き上げることは、時間の制約上個々の作品を高レベルに仕上げることには適さないが、何を目指すべきかが見えてくる。この講座でデビューできなくても、非常に有意義な講座であると思う。毎年受講すればいいかどうかは別として。

 さて、これだけ多くの人に指摘されているけれど、変に文章に気合を入れず、普段日記を書くような文体であっさりと綴ったほうが、自分が好きな物事をねちねちと描写するよりもいいらしい。それと、会話が情報を与えるだけの機能しかないということも、言われてみればまったくその通りだった。読者を楽しませるというよりも、ストーリーを進めるための情報提供だけの場になっている。雑談をしろとまではいわないが、軽い雑学を取り混ぜるなり、キャラクター同士の関係が浮かび上がるような描写をするなりしないと、本当に義務で会話することになってしまう。言われてみれば、過去の作品のほとんどにそういう傾向がみられ、だから作品に硬い印象が生まれてしまっていたのだろう。

 エッセイが向いているというのも、複数の人から言われており、はてな匿名ダイアリーでもときどき文章が読みやすいという評価をいただくことがある。喜ばしく思う。ただし、エッセイを綴るには非凡な着眼点が必要であり、安易にエッセイの公募に出せばそれでいいわけではないだろう。

 さて、いよいよ最終実作。変に気負わず、ちまちまと書いていこう。そして楽しむこと。自分が楽しくなかったら、きっと読者も楽しめない。

 

 以上。

昨日の感想交換会でいただいた意見のメモ

■最終実作梗概について

  • 物語の層が三つあることは特に問題は感じられない。特に、二番目のアラビアンナイトの層が面白い。一方で、一番外側の現実が普通っぽい。そのため、もしも後輩との会話が妄想だったとしたら、現実パートで何も起こらないことになってしまう。一番外側の層を面白くする方法はいろいろあるけれども、個人的にはここが面白かった。脳と知性、非日常といったテーマが妙に面白い。
  • 私も三つの層があることは問題ないと思う。気を付ける必要があるのは、話の本筋をそれて枝葉を豊かに茂らせすぎてしまうことか。ディテールを書きたくなるだろうが、バランスに注意する必要がある。また、外枠の主人公の物語は基本的に閉じていてドラマになっていない。それと、後輩の「平凡」な文章を具体的に示してほしい。
  • 構成が緊密で、やりたいことからずれてしまうことはないだろう。読んでいて難渋にもなっているのに問題は起きていない。過去の作品も踏まえたうえで、指摘できる問題点は次の通り。細部をしっかり詰めているので、因果律が強すぎる。そのため、どんでん返しのためのどんでん返しとなっていて、私のようなタイプの読者はカタルシス感じない。また、安易にいい話にしようとすることに対する照れというか、ブレーキがある。加えて、作品のいくつかで親がこっそり支援していたことが明かされるが、読者としては自分で切り抜けてもらいたい。
  • アラビアンナイトが面白いので、現代パートをもっと面白くしてほしい。
  • アラビアンナイトの部分は梗概だと抑え気味な気がする。とはいえ、この人は梗概に書かれていない文章の運びや言い回しで面白いことが多い。細部をつめればいいのだと思う。現代はもっと派手にしたほうがいい。それと三つの層があることの意味を確認したい。たとえば二つ目は一つ目の語り手の心情を表すとしたら、三つ目は深層心理を意味している、などの機能が欲しい。
  • 構造についてのコメントは難しいので他の部分について。現実パートの人たちをもっと強烈にしたほうがいい。悪友をもっと悪く、リアルに嫌な奴にしてほしい。これだけだと主人公の独り相撲に感じられる。勝手に気落ちしているだけで、具体的には何にもしていない。悪友に言い返すとこさえしていないキャラクターをもっと活躍させてほしい。自分が後輩を守った、ということも勝手な思い込みに見えてくる。劇中劇はどのくらい投影か。
  • 現代パートの魅力に乏しい。登場人物がもっと有機的に絡んだほうがいい。現代パートにはどんでん返しがない。

■第9回実作について

  • 普通に読めたが一人称のほうが読みやすかったかもしれない。というか、三人称である必要性を感じられなかった。というのも、語られるのがほとんど青年の思っていることで、内面に踏み込むのなら一人称のほうが適切。全体的に文章量が自分の好みからすると多めで、デバッグモードという言葉が出てくるまでが長い。それが好きな人もいるかもしれないが、自分には合わなかった。テンポもやや遅い。仮想世界なので、もう少し何でもありにしてもいいかもしれない。もう少し伏線が欲しい、独白のトーンが変わるとか。情報を出すタイミングをもう少し早くしてもいいかもしれない。あるいは、世界がバグるなどの展開があってもいい。設定が若干あやふやなところがある気がした。参考資料「汝、コンピュータの夢」
  • 文章はうまいが個々のエピソードで負けていると思った。けれども、普通の先輩との話からデバッグモードのあたりから面白くなった。この展開は意外性があった。多くの人が想像するような最大公約数的な恋愛シミュレーションっぽいところから、こういう趣向なのね、と安心した。この実作に関してはいわゆる恋愛という建付けをしている。問題は「落とす」という言葉で、ここで邪推してしまった。先輩の正体が敵の戦艦で撃墜するのかとか、フリーズさせるという意味で落とすのか、などなど。ところで、三人称の地の分で先輩と呼ぶのはなれなれしいかもしれないけれど、他にいい言い回しはないだろうか。それと、この話は主人公がどの程度人間として責任を持てるかという話なのだが、先輩の正体を見破るのを失敗しているので、ゲームには負けている。先輩と付き合うかどうかについてもあいまいになっている気がする。ロジックではなく空気でやろうとしたのか。
  • 世界観が透明できれい。特に、トンネルの中の星空が美しい。全体的なテンポが速いところとゆっくりなところがあるといい。緩急が欲しい。
  • 人工知性や妹との関係性が面白い。先輩とのやり取りも軽妙。ただし、終盤が納得いかない。それ以外は非常に楽しめた。

■皆様、お疲れ様でした。

最終実作梗概、拡張版。

 これはメモ書きをアップロードしたものであり、今後改定する可能性がある(というか、実作を執筆しながらメモ代わりに使うかもしれない)。

 講評会で使うためにここに掲載する。講評会関係者以外にも閲覧可能な形にすることで、ほかの受講生、来期の受講生の参考になると考えている。

 取り消し線は元の梗概と異なる個所、下線は追記部分。

 

以下本文。

 

作品のテーマ:他者理解の難しさ、思い込み、記憶違い。

 

求めるべき傾向:ただ暗いだけの話にはしない。個人的な怨念を込めることもしない。ただうっすらとした悲哀が雰囲気としてただよっているくらいにする。場合によっては、箸休めとして適度な生活感を出す。モデルとなった人々と登場人物は、あくまで別人として扱う。

 

淡々とした一人称。普段の日記みたいな。

 

現代日本(枠物語)

 

登場人物紹介

 

主人公:高良秀治(こうら ひではる)

 普通の勤め人。極めて優秀というわけではないのだが、大きな失敗もすることはない。三十歳を目前にしているのだが、特につきあっている相手はいない。そのことでうっすらと焦燥感を感じている。学生時代は文芸サークルに所属していた。

 どうして文芸サークルに所属していたのか、そして、なぜ今も小説を執筆することがあるのか、を解き明かすことが、物語の一つの軸となる。基本的に読書が好きで、文章を書くのも好きである。長い日記を書くのが習慣になっていて、何も書かないと調子が悪くなるほどである。

 小説が書けないときも、ブログで読書日記をつけている。通勤時間中に書くこともある。

 彼にとって文学サークルは居心地が良かった。工学部卒。

 

ヒロイン:中山望美(なかやま のぞみ)

 高良の学生時代の文芸サークルの後輩。高良が卒業した後、サークルの雰囲気が合わなかったためにやめてしまう。現在、才藤映里香(さいとうえりか)の名前でライターをしている。内容は女性向けの文化批評が中心で、イラストも描いている。

 サークルをやめたきっかけは、事項に出てくる井場が彼女の作品を厳しく批判したためである。高良は中山の作品を気に入っており、それを彼女から聞いたときには惜しいと感じた。サークルをやめたいという話を、二人は夕飯を食べながらした。

 

悪友:井場隆(いば たかし)

 同じく学生時代の文芸サークルの仲間。途中から入ってきて、サークルの雰囲気をより文学批評的にした。現在は文学部で助手をしている傍ら、文学の批評も行っている。作家になるだけの才能はあったのだが、本人にその気はなかった。

 

あらすじ

 

 高良は普通の勤め人である。仕事が終わると小説の執筆をする趣味はあるのだが、今一つ成果が出ていない。一度最終選考まで通ったことはあるものの、それ以降は目立たない。SF風味のものを試みたり、ファンタジーを執筆したり、純文学に回帰したりと、安定しない。ときどき、サークル仲間の井場の書いた評論の載っている文芸誌を手に取ることもある。成果が出ないなかで、そもそもどうして自分は文章を書いているのだろう、と疑問に思うようになる。ときどき、学生時代に戻ることができたら、と空想している。

 久しぶりに大学のサークルの仲間で集まろうということになったのだが、残念ながら諸事情で中止になってしまった。高良は幹事である井場に、ほかの面々はどのように過ごしているのかを尋ねた。そのなかで、高良は中山の様子が知りたかった。

 中山からは返事が来ていない、と井場は答える。井場は、高良が中山のことが好きだったのではないか、とからかうが、高良はそれを特に否定することはない。でも、高良は当時すでに中山にはすでにつきあっている相手がいたことを知っていたのだし、恋愛対象としては諦めていた。それでも中山に好意は持ち続け、かわいらしい後輩として接し続けてきた。高良は中山の独特の感性にいつも心惹かれていた。自分には書けないタイプの文章だからだ。

 高良は、中山のことを思い出してセンチメンタルな気持ちになる。スマホに残った彼女からの年賀状のイラストを眺めているうちに、いくつもの思い出を想起し、それから今までのうまくいかなかった恋愛の数々を思い出す。というのも、先日また振られたばかりなのだ。その気持ちを整理するために、高良は久しぶりに小説を書くことにした。ちょうど文学賞が近い。ただし、過去に戻ってやりなおすテーマの作品は書きたくなかった。何かに負けた気がする、という奇妙な羞恥心のためだった(こうした羞恥心についても少し触れる)。代わりに、千夜一夜物語風のものを執筆し始める。構想はずっと前からあったものだ。

 

*(アラビアンナイト・前半)

 

 高良は、アラビアの風俗や、アラビアンナイトそのものについて調べるうちに、だんだんと疲れてくる。ガラン版のアラビアンナイトを探しているのだが、アマゾンで注文しても入荷待ち、書店も開いていない。そこで気晴らしに、何気なく彼女の名前で検索をする。それでも、古いSNSのアカウントが見つかるばかりである。もう何年も前から更新されていない。散歩をしたりネットをしたり、気分転換をしてからいろいろと試みているうちに、彼女の年賀状を画像検索してみた。すると、才藤映里香という名前のライターの記事が見つかった。文章の癖もイラストのタッチも中山のものであった。やっとのことで彼女を見つけたことでうれしくなってくる。

 彼女はすでに結婚していた。高良はその事実で打ちのめされることはない。一抹の寂しさはあるが、それは予想していたことだ。子育て日記を見ていると、むしろほのぼのとした気分になる。けれども、いくばくか残念な気分にもなる。というのも、女性向けの記事の内容が高良には凡庸に思えたからだ。彼女の非凡な感性はどこに行ってしまったのだろうか、と。

 井場に、中山が最近ライターをやっていることを知っていたのか、と尋ねてみる。彼は知っていた、と答える。そして軽蔑するように告げる。あんなもの誰でも書ける、と。あいつはきっと、編集者と寝て仕事を取ってきたに違いない。できちゃった婚だったしな。お前はまだあんなふわふわした女が好きなのか、彼女はできないのか、云々。高良は不快になる。彼女が同窓会に来るのを断ったのも、きっと井場がいるからなのだろう。考えてみれば。彼女の作品を井場はいつもけなしていた。記事を読んでいるうちに、井場のような女嫌いのタイプの男の取扱説明書、のような記事もあって、苦い思いが込み上げてきた。自分が彼女を守ってあげなかったから、彼女は小説ではなくこうしたありがちな記事を書いているのではないか、と。彼の気分を反映して、小説の内容も、だんだんと暗くなっていく。井場の言葉も耳に残っている。本当は彼女のことがまだ好きなのだろう、あきらめきれないのだろう、と。

 

*(アラビアンナイト・後半・バッドエンド)

 

 そして、高良は考えるようになる。彼女の豊かな才能をつぶしたのは井場なのではないか。ならば、自分は彼女を励ますべきなのではないか。中山は作家になるべき人間だったと思うし、自分は彼女のことをよく理解しているはずである、と。高良は、中山の業務用のメールアドレスに、自分の近況を伝え、久しぶりにお茶でも飲まないか、という話をする。思いがけないことに、彼女の家に招待された。

 中山の夫は子供を連れて出かけているらしい。高良は、土産物に二人でパフェを食べた店の菓子を持ってきた。直接会えないので、チャットによる会話をする。学生時代の様々な思い出話をするのだが、記憶の細部が噛み合わない。高良は切り出す。もう君は小説を書かないのか。才能があったのに、と。僕はいまだに書いているけれども、芽が出ない。君はどうだろう。中山は笑う。私は今の生活にとても満足している。私にとって小説を書くという行為は自分を励ますためであり、似た境遇の女の子を励ますためでもあった。私は、小説とは別の形でその願いをかなえている。それに、私のイラストをかわいいとほめてくれたのは先輩でしたよ、と。先輩は売れる作家になりたいんですか? それとも、自分の気持ちを文章にして誰かに伝えたいんですか? 世界観を表現したいんですか? その問いかけが心に響く。井場のことも、吹っ切れているようだった。私は先輩の書く、SFっぽい雰囲気の作品、理解できないなりに好きでしたよ、と。

 ライター業を小説執筆よりも下に置いていることをたしなめられたように感じる高良。あるいはそれは気のせいであったのかもしれない。そこで夫と子供が帰ってくる。高良も好感が持てる男性だった。夕飯も食べていくことも勧められたのだが断った。本当に幸せそうで、かすかに胸の痛みを感じながらも、彼女のいく先を祝福したいと感じた。そして、結末を書き換えることにする。好きな世界、幻想の世界に持っていく。

 自分の記憶違いのことを思いつつ高良は開き直る。自分が知りもしないイスラーム世界の正しい過去など描くことはできないのだから、舞台は実は遠い未来であったことにする。

 

アラビアンナイト・後編・グッドエンド:舞台は過去ではなく、遠い未来であったことを明らかにする)

 

 結論を書き換え、高良は改めて考える。自分は何のために小説を書いていたのだろう、と。ただ、学生時代の思い出を語りなおすためなのだろうか。それとも、青春の頃の熱気が忘れられないだけなのだろうか。結論は出ないままにも、まずは書いていて楽しかった、と彼は思う。

 

千夜一夜物語(劇中劇)

 

登場人物

 

イスマイール

 主人公。優しいが少し気が弱いところがある。まだ恋を知らない年齢だが、異性への関心は芽生えつつあり、それに対して気恥ずかしさを覚えている。高良が無意識に自分をモデルにしているのかもしれない。

 

サイイド

 イスマイールの兄。弟とはあまり似ていない(母が違うことも原因なのかもしれない。彼の母は亡き第一夫人だ)。自分の意見をしっかりと述べるが、意地の悪いところがあり、別の宗教に対しては容赦しない。特に、十字軍のマアッラ攻囲戦で行われたカニバリズムにより、異教徒を憎悪している井場がモデルになっている節がある。義理の母との折り合いはあまりよくない。

 

ハールーン

 イスマイールの父。博識であり、メッカを訪れたこともある名士でもある。他の宗教に対しては基本的には、礼儀を守っている限りは寛大。ただし、身内が改宗しようとすることに対しては、断固とした態度を取る。

 

マルヤム

 イスマイールの母。もともとコプト教徒(東方のキリスト教の一派)であったが、正式な妻になるためにイスラームに改宗した。ハールーンの第二夫人。実の子供ではないサイイドに対しても愛情を注いでいる。

 

エヴァ

 巡礼者の娘。キリスト教徒ではあるがカトリックであるため、マルヤムとは宗派が異なる(カトリックの十字軍は、コプト教徒に対しても、異端だと判断して冷淡であった)。人形遊びをしたり、絵を描いたりと、イスラーム世界では珍しいことを好む。中山が部分的なモデル。言葉は残念ながら通じない。

 

あらすじ

 

 文学サークルの青年高良が、片想いの相手を空想しながら、次のような物語を綴る……。

 

アラビアンナイト・前半)

 ムスリムの少年イスマイールは、聖地に巡礼に向かう少女エヴァに出会う。イスマイールの父ハールーンは疲れ切った彼女の一行を何日も屋敷に泊めてやり、物語を聞かせ(註:ここでもう一段階劇中劇が入る)、食料まで持たせる。兄、サイイドはそれが面白くない。なぜならば、キリスト教徒が聖地を巡礼できる現状を誤りだと考えているからだ。エヴァは別れ際に、お礼として聖母をかたどった人形を渡す。イスマイールはそれが何だかわからない。ただ少女の人形遊びに使うものだと思うばかりであった。

 

 高良はアラブ世界で人形遊びが可能なのかを疑いつつ続ける。

 

アラビアンナイト・後半・バッドエンド)

 それが宗教的なものであると教えてくれたのが母マルヤムだった。彼女は改宗してムスリムとなったため、キリスト教徒の風習についても理解があった。それでは、これはイスラームで禁じられている、神を具体的な形として表現する偶像崇拝ではないか、とイスマイールは困惑する。しかし、それを捨ててしまうことができない。なぜなら、いつの間にかイスマイールの心の中で、その像が彼女との大切な思い出の品になっていたからだ。彼は人形をいとおしげになでる。

 兄はそれを意地悪くも見つけ、取り上げようとする。もみ合っているうちに母が割り込んでくる。それでも喧嘩をやめないので父が威厳ある態度ででてくる。父親はサイイドが暴力をふるったことは叱責したが、イスマイールには人形は焼き捨てなければならないと諭す。それでも納得しないイスマイールに、改宗しようなどと愚かなことを考えるな、と怒りをあらわにする。

 たまらずに家を飛び出すイスマイール。するとそこには巡礼から帰る途中のエヴァたちがいた。丁重にお礼を言う巡礼の人々たち。いっそのことエヴァムスリムになってさえくれれば正式に結婚できる、と思うが兄に憫笑される。自分も改宗するわけにもいかない。それは死を意味する。そして、結婚がかなわないのなら、そして大切な品を焼いてしまうくらいならマリア像はいらない、とエヴァに返そうとするが、言葉が通じないせいか受け取ってもらえない。

 イスマイールは泣きながら火の中に聖母像を投げ込んでしまう。何が起きたかほかのキリスト教徒たちにはわからなかったし、エヴァは黙ったまま立ちすくむばかりだった。そして、所詮異教徒とは分かり合うことなどできない、と兄は笑うのだった。

 

 物語の書き手は、途中で時代背景を調べる苦労や、身の回りの出来事の愚痴を挟んできたが、ここでこんなラストは承服しがたいと考え、書き換える。

 

アラビアンナイト・後半・グッドエンド)

 だが、翌日になると火に投じられていたのはただの木切れだったことがわかる。母のマルヤムが気を効かせて、こっそりそれらしいものを渡していただけだった。聖母マリアは無事、エヴァのもとに返された。言葉は通じないままだが、旅の安全を願い、イスマイールはお守りを渡す。父親が巡礼者を再び歓待したのち(ここでも劇中劇が入る)、二人は別れる。彼女は「さよなら」と言って去る。それが彼女の知っているただ一つの言葉だった。(彼女が帰っていくロケットが、あるいは軌道エレベータが見える)。その数年後、聖地は再び戦場となる危機が訪れるが、成人したイスマイールによって防がれる、と歴史書は述べている。

 

 ご都合主義だ、と青年は自嘲するけれども、自分もまた慰められたように感じる。

 

父・ハールーンが語る話、すなわち劇中劇の中の劇

 

 長くなるので簡素に。一つ目の話は「デカメロン」や「賢者ナータン」に出てくる「三つの指輪」をベースにしたもの。すなわち、それぞれの宗教の教えは平等である、というテーマ。元の話では、聞き手がサラディンとなっている。二つ目の話は「デカメロン」の十日目の九回目の話の簡潔な再話。自分が帰れなかったら再婚してもいい、と告げて騎士は十字軍として出征した。彼は捕虜となるが、サラディンはかつての恩義のゆえに、捕虜ではあるが敬意をもって遇した。そして、妻が結婚してしまう約束の日に、サラディンが恩返しとして魔法で家に飛んで帰らせる。どちらも、サラディンが名君として出てくる話として知られる。

 

以下、個人的なアラビアンナイトにまつわる諸事情。あるいは、語り手の思い出。

 そもそも入れるべきかどうか、長くならないかがわからないため、いったん空欄。

 

 以上。

 

追記

 後輩とのやり取りはすべて妄想、というオチはどうだろうか?

 

最終実作、ダールグレンラジオ、それから松山氏の感想

■謝礼

 皆様、いつも励みになるコメント、ありがとうございます。毎度参考にさせていただいております。

 

■ダールグレンラジオでいただいた感想

 いつものことだけれども、どなたの発言かを聞き取ることが難しいので、とったメモから大意を拾う。ここの15:00くらいから。

 毎回ハードな設定が多く、 SFというものにしっかり取り組んでいる。アラビアン・ナイト風の舞台なのはテッド・チャンに影響を受けたのだろうか。お話そのものはチャーミングにできていて、人形というテーマに貫かれている。

 雰囲気は近代小説っぽいところがあり、芥川龍之介太宰治の奇跡譚を思わせる。「奉教人の死」「おぎん」など。他にもユルスナール「燕の聖母」にも似ていて、おすすめ。ただ、作品を書く前に読んでしまうとノイズになってしまうかも。

 先ほど、芥川・太宰について述べたが、劇中劇の扱いも似ている。太宰の作品に物語を書いている作者の日常が入ってくるものがあり、それがとても好き。

 ただし、ドラマが浮かびにくいという欠点もある(梗概は視覚的なのがいいのかもしれない)。

 それと、ネーミングはダビデとソロモンそのままなので*1、そこは変えたほうがいい。

 それとは別に、ダールグレンラジオの中から最終実作に役立つと感じたことは次の通り。

お話を観念的にしすぎないほうがいい。自分にとっての理想の、イデア的な小説を書いている、という気分で執筆するのがいい。世界観よりも、主人公が何をしてどうなったかを書くのがずっと大事。講座やラジオで指摘を受けることもあるが、そこは反映するといい。ただし、守りに入りすぎない範囲で。

各人には得意なジャンルがあると思うが、毎回そればかり書いていると飽きられてしまうし、評価もされにくい。得意な分野は残しつつ、毎回新しいことにチャレンジするといい。得意技を使いつつ、毎回ちょっとずつ新しいことを試すと、講座という形式を活かすことができる。

■松山氏の感想

 こちらから引用。

様々な物語を書いている青年は落ち込んでいる様子ですね。救いを求めて書いた物語に、どんな影響を受けるのでしょうか。砂漠に点在する街で、夜の風を受けながらオレンジ色の蝋燭の元で一人筆を走らせているイメージです。青年の物語も、青年が書く物語も、比較的静かなのに色鮮やかな印象なのが不思議です。

 ■雑感

 よく読み込んでくださったコメントをいただくだけで励みになるのだけれど、今回とても腑に落ちることがあった。自分の小説は現代小説というよりも近代小説なのだ。言われてみればテーマも文章のリズムも色濃く影響を受けている。自分の長所と短所をこの一言で説明できてしまう。

 学生時代に読んでいたのは大体そのあたりの時代のものばかりだったし、確かにその通りなのだろう。

 国内海外を問わず、近代の小説のどこに惹かれていたのか、その理由はわからない。それこそドストエフスキーのように、神は実在するのかどうかで呻吟する、その大仰な身振りが好きなのだろうか。時代が下るにつれて神の存在を信じられなくなり、あるいはそもそも神に呼び掛けることさえしなくなっていくのだけれど。それとも、まだ教養なるものに価値が見いだされていたからなのだろうか、たとえエリート主義であると批判されようとも。

 わからない。現代が近代の作品を批評するときに指摘する様々な物事、それは確かに正しいのだし、自分も当時の価値観は批判すべきであるとも思うのだけれども、それでもなお、正しさを超えたところにある魅力があるのだし、その源泉はいったい何なのだろう、と気になっている。

 梗概とはただあらすじを書くのではなく、ヴィジョンを示すものなのだなあ、とラジオを聞いてやっと理解した感じがある。それでも、松山氏は視覚的なイメージを思い浮かべてくださったので、企画書としてまったく不出来というわけではない感じがして、うれしい。

 具体的にどこを直そうか、あるいは次回の講座ではどの点でアドバイスをもらおうか、いろいろと検討はしているのだけれども、もう遅いのでまた今度。

 

 以上。

*1:ここの講座の読者のレベルが高いってこと忘れてた。実作では変えるつもり。

「〇」「×」「△」「□」の全部がそろった文字体系って存在するんだろうか。

 ギリシア文字を見ながら考えた。Ο、Χ、Δがあるのに、□がないのはなんだか惜しい。Πはなんだか近い気がするが、□ではない。

 自分はもともと文字が好きである。そこから派生して架空の言語にも興味がある。ときおり、手帳の片隅に読まれたらまずいことをトールキンのエルフ文字でメモしておくくらいには。

 本題に戻ると、丸・三角・四角・バツの四種類すべてがそろっている文字を考えるのは意外と難しい。まず、ラテン文字*1だが、これはOとXしかない。キリル文字もОとХだけだ。フォントによってはДが三角らしくなるが、ギリシア文字のΔが元になっているから、当然ではある。

 アルファベットから形を借りたチェロキー文字なら□があるのではないか、と思ったがそんなことはなかった。先住民の文字といえば、カナダ先住民文字が有名だし*2、確か△を要素として含んでいたはずでは、と思って調べてみると、△だけであった。記憶がいい加減だった。ならばアフリカのティフナグ文字ならどうか確認すると、〇×△はあるがやはり□がなくて、Πに似た一画足りないのがあるばかりである。

 韓国のハングルには、ㅇ、ㅁがある。それぞれ子音なしまたはng、それからmを表すパーツだ。ㅅはsで、フォントによっては△になる*3。さらに今では使われていない、zの音を表していたㅿがある。ハングルはこれらのパーツの組み合わせで文字を構成するので、厳密には〇△□×だけではないのだけれど、要素としては含んでいる。だが、残念ながら×だけがない。ㅏとかㅗとかㅢとか、限りなく惜しいのに。

 フォントによってそれらしく見えるものを含めてもいいとするならば、意外なことにカタカナが候補に挙がってくる。つまり、ロを□に、メを×に見立てるのだ。丁寧な楷書を書くよう心掛けている習字の先生なら卒倒しそうだが、これでムを△に見立てればカタカナだけで、〇以外のすべてが見つかる。つまり、もしも句点を含めていいのなら日本語で〇×△□のすべてがそろうことになる。

 結論その一。〇×△□のセットの文字は存在する。意外なことにそれはカタカナ。

 

 さて、句読点が反則だというのなら、漢字はどうだろうか。カタカナは漢字に由来するのだから。口は□だし、厶という漢字もある。ほぼ△になっている字体もある。「私」のもととなった字である。㐅もきちんとある。「五」の古字だそうである。乂もフォントによっては十分×に近い。そして、〇もある。これが、アラビア数字のゼロ由来なので納得できない、という人のために、則天文字*4の「星」である、と解釈したい。

 結論その二。漢字にも〇×△□が存在する。

 

 とはいえ、漢字だと数が多すぎるので何でもありになる気がする。日常的に使われていない文字も多い。これらが自然な文脈で出てくる文章も考えにくい。そういう意見もあるだろうが、現代普通に使われている文字で、特に表音文字では、〇×△□のすべてが含まれているものを見つけることは、まだできていない。おそらく視認性と書きやすさの問題で、〇と□が共存しにくいのだろう。

 現在使われていないものを含めれば、まず思いつくのはフェニキア文字だ。〇、×、そしてほぼ△がある(それぞれアルファベットのO、T、Dの祖先にあたる。△はちょっとはみ出ているが)。惜しいことに、□に一画加えた日のような文字もある(Hの祖先)。一画余計にあるのは、やはり視認性の問題なのだろう。

 で、フェニキア文字から派生した文字のどこかに、四種類すべてが含まれているものがあるのではないか。そう思って探していたら、一つあった。イベリア文字である。

 イベリア文字は、その名の通りイベリア半島で紀元前五世紀から一世紀の間に用いられていた文字で、面白いことに音素文字と音節文字の混合である。つまり、子音と母音を単独で会わらす文字と、子音+母音を表す文字が混在している、ユニークな文字だ。南東部で用いられていた変種は、〇がE、△がTUまたはDU、□がTEまたはDE*5、×がTAまたはDAである。×は厳密には十だが、もうなんだかこれでも構わないような気がしてきた。実際、当時の文字は今の紙に書くようなものと違って、そこまできれいな形をしていない。〇と□が混在しているのは、音節文字の要素を含んでいて必要な文字の種類が増えたからだろう。

 最終的な結論。〇×△□すべてを含む文字体系は実在する。現代用いられているのは条件付きでカタカナ、漢字。古代文字にもイベリア文字という例がある。

 

 おまけ。神代文字は人工的なものであるせいだろうか、〇△□を要素として含む秀真文字の例がある。〇と□が共存している例である。また、架空文字だと趣味性・遊戯性が優先されるので、〇×△□のすべてを含むものは多そうだ。

 

 以上。

*1:普通の英語のアルファベット

*2:「ᐛ👐)パァ」で使われてる文字だ。

*3:韓国土産のお菓子がそうなっていた。

*4:唐の高宗の妻武則天が作った文字。一時期政権を握り、多くのものを自己流に改革し、王朝名も武周に改めた。

*5:BUという説もある。

スターウォーズと先住民、エンタメと国家のトラウマ

 正月休みに「スターウォーズ」をまとめて視聴したことがある。まだエピソード7が出ていなかった時期のことだ。順当に公開した順番に見ていたのだが、まず感じたのは「やはり欧米のエンタメの骨格にはローマ史があるのかな?」ということよりも、「このシリーズ、妙に先住民との共同作戦が多いな?」ということだった。

 たとえばエピソード6では衛星エンドアの先住民イウォークと結び、再建されたデス・スターを破壊する。また、エピソード1では惑星ナブーの先住民グンガンとともに通商連合と戦い、しかも地上と水中で別れて暮らしていた人間とグンガンとの和解も果たしている。地元の先住民と協力してゲリラ戦を行うことも、あるいは開拓した大陸の先住民と共存することも、どちらも実際のアメリカは失敗してきたにもかかわらず*1アメリカ開拓史やベトナム戦争での失敗をエンタメの中でやりなおそうとしているのではないか、と首をかしげたのだ。

 これだけだと悪趣味な勘繰りのようにも聞こえてくるのだが、日本でも似た例がある。日本のエンタメで人気のある展開として、一人の犠牲で大勢の仲間が救われるパターンがある。物量で圧倒的に不利な戦況を、勇敢な一人の突撃によってひっくり返すさまを見ると、自分はどうしても神風特攻隊を想起してしまうのだ。

 となると、次のような仮説が立てられる。ある国で人気の出るエンターテインメントには、その国家・文化圏が総力をかけて成し遂げようとしたが失敗した行為を、虚構の中で成功させている要素が含まれているのではないか。

 たとえば、「指輪物語ロード・オブ・ザ・リング*2」だ。寓意をなによりも嫌ったトールキンならば、このような読み方はきっと嫌悪を覚えるばかりであろうけれども、それでも物語とその背景が現実の歴史から影響を受けていることは認めなければならない。アラゴルンは南のゴンドールと北のアルノール、二つの王国の王位を継ぐ資格を持つ王として帰還する。このうち、北方のアルノールは兄弟の不仲から王国が三つに分裂し、弱体化して滅亡している。一方のゴンドールは高雅な文化を保ちながらも東からの脅威に直面し、風前の灯火である。それぞれフランク王国ビザンツ帝国を連想するな、というほうが無理だ。この両王国を統一する王が帰還し、西方世界に秩序を取り戻すのは、まるでローマの再興と聖地の奪還に失敗した西欧の奔放な夢のように思えてくる。

 これだけだと例が少ないし、東欧や中国、インドやラテンアメリカではどうなるのか、といった情報がないと、傍証としてはあまりに不足している。韓国のベストセラー「ムクゲノ花ガ咲キマシタ」では、韓国と北朝鮮が日本を占領する場面が出てくるらしいが、これは南北の統一と、東アジア諸国の中では中国を除いて自分が一番の兄貴分でありたいという願いのためだろうが*3、この一冊だけでは根拠としては不足だ。

 国際的にこの仮説を検証するためには、相当広い範囲の未翻訳のエンタメを狩猟しなければならないので、明確な結論は当分出せない。ただ、各国の仮想戦記研究と近いことをやるのかもしれない、と漠然と思っているばかりである。

 

 以上。

 

*1:先住民とは悪意ゆえに共存できなかった面もあるし、善意と敬意を持って接していたケースでも、当時の医学では避けられないユーラシア由来の伝染病が猛威を振るっていた。

*2:関係ないけれどこの邦題、リングが単数形なのがいまだに納得できない。指輪は複数あるはずだ。

*3:753年、長安の大明宮における朝賀で、遣唐使大伴古麻呂新羅の使者と席次を争う事件が起きているので、たぶん東アジアにおけるこうした対立意識の歴史は長いのだろう。