個人的なSNSとブログの使い方について

ツイッターは、交流のためというよりも、宣伝と事務連絡のために使う

 

 この方針にしようと思ったのにはいろいろと理由があるが、最大の理由は、執筆時間を取られたくないからだ。平日の昼に働いているので、執筆にあてられる時間は平日の夜と、休日しか残されていない。なので、できるだけ文章を書く以外の誘惑からは、離れていたいと考えている。
 こちらからフォローする方も、基本的には直接お目にかかり、お話しした人に限らせていただきたい。自分は、なんというか複雑なコミュニティの中での立ち位置を把握するのが不得手で、すぐに消耗してしまうためだ。すべてのリプライに返事するのも、難しいだろう。
 もう一つの大きな理由としては、他者の感情に巻き込まれるのが非常に苦手だというのがある。世間には、新聞やSNS上で大いに話題になる出来事が多々あり、時にはそれに対する鋭い批判によって、世の中が良い方向に動くのは事実だが、そこに参加することによって、僕はひどく疲弊してしまうのである。たとえ、それが正しいことであったとしても、怒りや嫌悪によって駆動された潮流の中には身を置きたくない、というのが自分のスタンスだ。
 作家とはそうすることが義務ではないのか。耳を傾けるだろう人の多い人間こそが、積極的に発信し、不正を告発する側に回るべきなのではないか、という考えがあるのは理解できるし、そうしたスタイルの活動が合っている人がいるのも本当だと思う。自分はそれを尊敬する。ただ、自分にとって一番大切なのは、文章の力によって自分の内面を表現したり、人びとを楽しませたりすることであって、政治活動ではない。
 一番に望んでいることは何か、その軸がぶれてしまうのは、とても不幸なことだ。ましてや、そこで他者の苦しみや悲しみに悩まされ、自分にとって一番の楽しい時間を犠牲にしてしまうことは、たとえエゴであると批判されても、したくない。それに、僕の政治的スタンスについては、ここで書くよりも、僕の作品そのもののほうが、遥かに雄弁に語ってくれるだろう。
 こうした態度にご不満の方も多いだろうが、自分としては、これは基礎研究にも似た長期投資なのだととらえている。間違ったことに対して、直接ノーというのは、今すぐに成果が出る方法だ。対して、それを間接的に作品の中に織り込むのは、まどろっこしく、じれったく思われるが、政治と聞くだけで身構えてしまう人の心の中にもそっと入っていき、社会をより良い方向にかじを取らせる、ささやかな力になるのではないか、と考えている。
 少し長くなってしまったが、そういうわけで、自分のアカウントがそうしたことに対して沈黙を守っていたとしても許してほしい。また、本業にも力を入れなければならないので、ツイッターに深入りしすぎて、業務に支障が出ることはあってはならない。で、長い間ツイッターにログインしていなくても、あまり心配しないでほしい。そしてその結果、クリエイターのコミュニティの中での話題に疎くなってしまっても、言われてみればそういうやつだったな、と生暖かく見てくれれば、これほどうれしいことはない。

 

■ブログの更新も気まぐれだ

 

 文章を書くことの気晴らしが、別の文章を書くことだということはありえることだし、自分もそうしていたこともある。ただ、いつも走りっぱなしじゃないと死んでしまう、そういうタイプの人間ではないので、たとえば夜に映画をぼんやり見ている日だってあるかもしれない。
 そうしたわけで、ブログが大きく空いてしまったとしても、まあ、どこかで元気でやっていると思っていただければ幸いである。
 第一、どんなことを書けばいいのだろう。読書日記を書くと、自分の手の内を明かしてしまうみたいで、なんというか無防備になった気がするし、映画も同様だ。考えられるのは美術鑑賞の記録だが、それだってプライベートの日記で書いてしまっている。それを改めてまとめなおすのも億劫だ。確かに東京都美術館国立新美術館オーストリアにちなんだ企画展は素晴らしかったが……。
 それに、毎日感じているもやもやだったら、それは作品の中に形を変えて落とし込んでしまいたいし、さて、どうしたものだろうか、と首をかしげている。

 

■要するに

 

 僕は低浮上だ。