第3回の講座(8月22日)受講後の覚書、それから遠野氏のコメントに対するレスポンス

 今朝は歯科医に寄ったので午前休み。

 

 梗概について

 アーカーシャの遍歴騎士 – 超・SF作家育成サイト

 面白くなる可能性はあるが、焦点がずれている。たとえば、AIと元人格の関係があいまい。インパクトが弱い。自我を持つかどうかもはっきりしない。それと、性別の設定についてはこれで良かっただろうか。

 

 実作について。

  縮退宇宙 – 超・SF作家育成サイト

  冒頭の台詞が説明的に過ぎる。読者を引き込むには弱い。人数が少ない対話劇においては、やり取りで面白がらせる必要があるが、それに失敗している。それと、フランス語の使用が過剰でうっとうしい。話を成立させることでいっぱいいっぱいで、つかみがあまりにも弱い。

 この講座の講師や生徒は、最後まで読もうという気概のある人が多いが、一般的な読者は下手をすれば三行でやめてしまう。そうした読者に対するサービスを考えてほしい。

 ついでに、この作品に限ったことではないが、何の話か中盤まで読まないとわからない作品が多い。

 

 僕自身は、割と尖ったものが好きで、たとえばグレッグ・イーガンプランク・ダイヴ」か何かに収録されていた、いきなり人格をビーム転送する装置の建造が始まって、その転送するシーンが物理用語てんこ盛りで数ページ続くような話だとか、そもそも物理法則が全然違う宇宙が好きなのだけれど、少なくともこの講座では、そういう方向はやめた方がいい気がする。ついつい人物ではなく物理法則を主役にしてしまいかねない。

 それと、読者のことを考え切れていないというか、そんな余裕がなくなってしまったのも事実なので、これはちょっと何も反論できない。そもそも、僕があまり口頭でのコミュニケーションが得意ではなくて、講座でも、また的外れなことを言ってしまったなあ、と思いつつマイクを返すのだけれど、説明文以外での小説とかでも、どんな風に読者に情報を受け渡すかを考えるのは、割と難しいのだと実感している。

 フランス語がうっとうしいのもまたその通りだろう。たとえば異国を舞台にするのが好きで、ついでに翻訳小説も好きなのだけれど、読者が求めているのはある程度馴染みがある文化圏であるか、異文化であっても習慣の違いがリーダビリティを損なわないようになっているもののはずだ。

 それと、メルド、なる言葉を入れたのはまさに自分のひけらかしという悪い傾向のなせる業なので、こうした点はできるだけ削っていきたい。そもそも、知識は意図せずに漏れてくるときに効果を発揮するのであって、べたべたとそうしたもので塗りたくっては確かにうっとうしいに違いない。

 ちなみに、この言葉の使い方は村上春樹風の歌を聴け」とプルースト失われた時を求めて」から来ており、特に後者からは登場人物の名前を拝借したのだけれど、原典では別に母と娘の関係にあるわけでもなく、適切な引用ではないし、多少嫌みである。

 それにしても、登場人物の名前を考えるのは毎度一苦労だ。

 

 ところで、休憩時間中に、遠野よあけ氏と同氏のコメントについて少しばかり話をしたのだけれど、そこでちらりと出た評論の話が面白かった。

 

note.mu

 遠野市の評論はこちら。

 

 つまり、母と娘という関係の描写が、SFの界隈ではさほど問題にならないが、純文学のほうでは、どうして現代においてこの話を書く必要があったのか、そしてそれはどの程度正確なのか、などが問題になるそうだ。なるほど、そう聞くといくつか腑に落ちることがあった。たとえば、文学賞の傾向についてどうしても政治的な色合いを感じてしまうのだけれど、書きたいものを書くのが文学ではないのか、という考えに対して修正を迫られた。好きなものを好きなように書いて、そのまま文学の流れを変えるのは、よほどのことがない限りないだろうな、と。

 純文学に投稿したときに、露出狂の変態を主役にしたら途中まで通ったけれど、普通の青年(男性)の悩みを書いたらまったく反応がなかったのも、そういうことなのだろう。

 

 母と息子でも話が成り立つのも指摘通り、と思うと同時に、遠未来だから現代のジェンダー観はかなり薄まっているだろう、と予測した面がある。とはいえ、女性の主観で書くことに失敗している可能性はあるので、異性の視点で書くことはそう簡単ではなく、だからダイバーシティは生易しい課題じゃない。

 

 梗概の性別の設定はこのままで行く。安易に男女を逆転するとまたツッコミが入るに違いないし。

 

 以下、遠野氏の疑問に対する回答。

 

(1)古典計算機で量子論がシミュレートできない理由。

 量子論において、たとえば電子スピンが上か下か、あるいはもっとわかりやすくコインを投げて表が出るか裏が出るか、は完全にランダムで、どれほど完璧な装置を用いても予測することはできない。

 それに対して、古典論では完全に予測可能だ。コインを投げたときのたとえを使うならば、コインの質量や運動、投げるときの腕の動き、空気抵抗などを完全に計算できるから、次にどうなるかが決定的になる。

 そのため、古典論のコンピュータでは純粋な乱数を生成することはできない。完全なでたらめを作れないのだ。日常のパソコンが使っているのは、数式にある値を代入することでバラバラな数字に見えるものを出力する関数で、疑似乱数に当たる。つまり、一見でたらめに見えるが一つのルールに従った、完全に予測可能なものとなっている。ゲーム動画で乱数調整ができるのはそのためだし、作中でジルベルトが電子の位置を予測できたのもそのためだ。

 

(2)量子コンピュータを使えば、量子論のある宇宙がシミュレーションできるのではないか。

 自分は量子コンピュータの専門家ではないので、何とも言えない。たぶんできる気がするが、今の量子コンピュータは量子的な揺らぎを保つことよりも、一つの計算結果、たとえば最大効率のルートなんかを出すことを志向している気がする。

 それはさておき、本小説の世界観では、そもそも意識が古典論に従った決定論的なものであるので、わざわざコストをかけて量子論をシミュレーション宇宙に実装する意味がない、という理屈である。

 

 そうそう、ジルベルトが「さらに、もしも私たちの自由意志が量子論に支えられているとしたら、今のジルベルトは予測される通りのことしかできない」と述べたのは、彼女ははじめのうちは、意識は古典論ベースだということを、まったく信じていなかったため。

 

 サイエンスの文章とジェンダーについては、書くと長くなるので省くが、問題提起だけ。

 よく、科学の仮説が男性からの視点のバイアスがかかっている、という話はよく聞く。たとえば、狩猟採集という言葉があるけれど、実はカロリーベースで見ると女性の仕事と割り当てられがちな採集の方がカロリーが多い上に安定供給になっている、だから採取狩猟なんじゃないか、とかそういうの。

 ただ、文章にまで性別があるかどうかは僕もわからない。一応こういう本はあるが(未読)、たとえば話題だけではなく形容詞の多寡や文の長さに違いが出る可能性はないではない。

数字が明かす小説の秘密 スティーヴン・キング、J・K・ローリングからナボコフまで

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 この辺りは講座の人で議論したらすごく面白いと思うけれど、たとえば僕はノンフィクションを読むときは性別をほとんど意識していない。人物よりも科学的事実の方に心惹かれてしまうから。

 では、小説になるとどうなるか、これがわからない。円城塔「これはペンです」、倉橋由美子パルタイ」、グレッグ・イーガンの直交三部作、それから長野まゆみ「超少年」あたりを比べるとどうなのか。むしろ作風の偏差の方が大きいのでは、などといろいろと熱く語れそうではある。

 

 以上。