宇部詠一(ubea1)のブログ

ゲンロンSF創作講座をはじめとする物事の覚え書き。

第6回の講座(11月21日)のための覚書

 金曜から日曜にかけて、遠出をする。木曜はその準備にあてるため、やむを得ず早めに提出した。

 そのため今回は実作を読むのがかなり直前になるだろう。講座に間に合うかどうか、やや疑わしい。

 

カクヨムの連載が終わった

最後の竜は霧の中に消えた(宇部詠一) - カクヨム

 いくつか肯定的なコメントをいただけるととても励みになる。

 もちろん、書き終わってから随分と時間の経った作品なので、今だから気づく粗もあるのだけれど、そうしたことをここではあまり指摘しない。喜んでくれる人がいるということはそれだけでうれしいものであり、そんな人たちの気持ちに水を差すようなことはしたくない。それよりも、その教訓は自分の中に秘めておき、次の作品の糧にしていこう、と思っている。

 それと、自分はSFの人間だとばかり思っているのだが、ファンタジーも評価していただける。これは、SFよりファンタジーを書いたほうが読者が喜ぶ、ということだろうか。それとも、単純に読者の母集団数の差なのだろうか?

 

■第5回実作について

アムネジアの不動点 | 超・SF作家育成サイト

 文字数制限を守ることが講座全体を通しての目標であったのだが、ご覧のとおり多少超過してしまった。無念。

 3枚の梗概をそのまま素直に膨らませた場合の話の長さは大体50枚程度で、今まではその予測範囲に収まっていたので、初めてのことだ。その原因を自分なりに考えてみたのだが、やはり説明の部分が少し長い気がしている。

 これは前回の講座でも言及されたことなのだが、説明はSFを書く上で必須の部分であり、特にどのような世界観、ギミックなのかを説明しなければいけないのだが、説明をする側が気持ちよくなってしまう面があり、必要以上に長くしすぎる傾向がある。長谷氏であっただろうか、説明とは自慢話のようなものであり、長くしない方がいい、とのことであった。あるいは、聞かされているうちは自慢話だと(説明をされていると)気づかないように、上手に処理をするべきである、と。そのことを考えると、もう少し書き方に工夫をする余地はあったのかもしれない。

 物語そのものも、ありがちなのではないかという不安がある。メタフィクションはかっこいいのだが、やはりうまい人がやらないと、あまり面白くない。それに、主人公の成長の瞬間は、うまく書けただろうか。

 

■第6回梗概

重力崩壊と私掠船、その船医と強欲な商人 | 超・SF作家育成サイト

 久々にハードSFに回帰してみた。それと、梗概にフォントを入れてみた。これが吉と出るか凶と出るか。

 予定していたような、原子核の内部の存在が、電子軌道を徐々に外側に向かっていく、という話にはならなかったが、個人的には中性子星の中の粒子の海の中に人間の意識が保存されているという設定にしたので、十分に近いと考えている。当初の予定を破棄するのはもったいない気もするのだが、面白い話を組み立てるのが難しそうな設定はどんどん破棄していくのが適当だと思う。

 ハードSFらしからぬ宇宙海賊という用語が出てくる。これは、恒星間飛行にかかる時間の感覚が、舞台となっている世界では、船のそれに近いからである。つまり、舞台となっている時代は、人類の寿命はすでに数万年を超えているので、数光年の距離にある恒星系を訪ねるのは、感覚としては百歳ほどの寿命を持つ人間が数か月かけてよその大陸に向かうのに近い。

 なぜ炭素を手に入れるために白色矮星を破壊するのかといえば、人口が増えすぎて人体そのものや食料の材料となる炭素原子そのものが不足気味だからである。かなりの物質が有機化学で代替可能であるため、ほかの元素はそこまで不足してはいない、そんな時代だ。白色矮星の中にある(という説がある)ダイアモンドを求めるためではない。

 どうして登場人物名が、遠い未来なのに普通に英語圏のものなのか、といえば、この物語がすでに翻訳されたものだ、という設定があるからだ。

 梗概やアピール文にも書いたが、人類文明が大きく広がり、文化が今以上に多様になっているため、ちょっとしたしぐさや言い回しの違いによる誤解は避けられない。そのため、人類の意識にはあらかじめ、それを翻訳するシステムが生まれつき組み込まれている。相手のボディランゲージや距離感の違いから不快さを覚えることが自動的に避けられるのである*1。同じ理屈で、なじみのない文化圏の名前は、似たような意味や連想を持たせる名前に置き換えられることがある。人によっては、彼らの名前が村上水軍や九鬼水軍に関連する名前に聞こえるはずだ。

 とはいえ、またもアクションっぽいのが入ってしまった。今までとは傾向を変えるため、できるだけとぼけた味わいを目指してみたい*2

 第7回こそは「ミュルラの子どもたち」のように、感情の動きで語る物語を目指したい。

 

■第7回の準備

「取材」してお話を書こう。 | 超・SF作家育成サイト

 これ、今までで一番ハードルが高いんじゃないだろうか。

 自分の詳しくない分野か。なんだろう。経済学かな。高校の科目でいう政経。法律とか、憲法解釈とか。

 そもそも、自分がこのジャンルをわかっていないと気づいていないものもあるだろうし、そもそも存在すら認知していない分野の話だってある。そういう意味では、知らないことを書け、というのは非常にレベルの高いことを要求されているはずだ。

 個人的には、前々から調べてみたい江戸時代の知識人・学者の本をそろそろ読もうと思っているので、それをテーマにしてもいいのだが、じゃあたとえば賀茂真淵とか本居宣長とかをテーマにした、しっとりしたSFをどうやって書くのか、これは相当に難しい。和算天文学なら何とかなるか? でも、江戸時代を舞台にするというのは、江戸時代の人が起きてから寝るまでどんなことをしていたのか明確な知識が必要になる。たとえば朝起きてトイレに向かうまでの描写も、家の構造や枕や布団がどんなものだったかを知らないと書けない。それこそ小川氏がシンポジウムで語っていたように、上手に略してしまう手もあるが*3

 

■その他、近況

 そろそろ受講を開始してから半年近くが過ぎて、なかなか講座で言及されないことも多いのだけれど、それはそれでしょうがない、と開き直っている。そもそも、どこが良くないかを自覚するために、集中して一年近く書き続けているのだから、その成果は十分に上がってきているはずだ。

 よくない、と言われた作品に対して、執着しなくなってきたのもいい変化だと思う。ならば書き直すか、別の作品にしてしまおう、という気分なのだ。自分の作ったものに対して愛着を持つことは大切だし、一つ一つを丁寧に書いてはいるつもりだが、ある程度そうしたことに淡泊になる必要がある気もする。自分はこの作品を書かなければ、この思いを世間に訴えなければ、生きている甲斐がない、といった強い熱量は素晴らしいが、そうしたエネルギーを持ち続けて走り続けられるのは、よほど才能がある人間ではないと無理ではないだろうか。たいていの人間は長くは持たないだろう、という疑惑を持っている。自分はどちらかといえば、あまり熱くなりすぎず、それでいて手を抜くわけではなく、毎日少しずつ確実に作業を進め、きちんと一定水準のものを出す、そういうやり方のほうが向いていると体感している。前も話したが長距離型の人間で、ダッシュしようとすると息切れしてしまうし、感情を込めすぎると滑ってしまう。読者のペースを離れて、自分語りに陥る、そんな危険がある気がするのだ。

 

 以上。

 

*1:イーガン「シルトの梯子」かなんかにこんなのがあったと思う。

*2:たとえば強欲な商人と船医の会話で。でも、そんなことできるのかな?

*3:自分はソシャゲをやらないので、それについて調べてみるのも面白そうだが、問題は根本的な誤解をしてしまう可能性があり、しかもそれを指摘できる人口が多そうだ、ということだ。