毎朝の散歩、季節の花、civilization 6、それから最終実作に向けて

■近況

 美術館に足を運べない日々が続いている。

 はじめのうちは、自分の週末の大部分を占めていた趣味を封じられてかなりうんざりしていたのだが、近頃は通勤に使っていた時間帯に人通りの少ない近所を散歩しながら、道端や軒先の色とりどりの花を眺めることで自分を慰めている。考えてみれば、園芸部的なものから離れて以来、植物の前でじっと足を止めるのは久しぶりだし、そこで育てていたのは野菜ばかりで、花束を除いて色彩や香りを楽しむという経験からは、それこそ小学校の朝顔の観察からずっと遠ざかっていたのだ、と今更のように気づいて驚いている。どの花も香りが優しくて、形もユニークで、今までは花の名前なんてろくに知ろうとしてこなかったのだけれども、ちょっとは覚えようか、という気分にもなりつつある。

 思えば美術とはほとんどが視覚の芸術で、時折インスタレーションや映像などほかの五感を刺激するものもあるのだけれど、嗅覚というのは珍しいものであるし、しげしげと眺めてみると、人工のものにはない色彩を花は備えていて、鑑賞するには美術品とはまた別の感受性が求められている。そもそも自然の生命に作者の意図といったものはないのだから*1。さらに言えば、心の別の場所を刺激させられているように感じられていて、美術館ばかりに足を運んでいて固まりかけていた精神が、より自由に活動できるようになったようでもある。そういうわけで、美しいものに慰められる経験からは全く縁遠くなったわけではない。それどころか、生活に新しい楽しみを見出しさえした。春だからなのかもしれないが、秋まではこの調子で楽しめると期待している。

 読書も何とか続いている。家の中の読書も乙なものだ。自分は、電車の中の読書が一番集中できると思っていた。というのも、通勤時間は隙間時間であり、読み進められる時間の長さが決まっているので、ある程度は強制的に集中させられることになるためだ。だが、これも慣れの問題だったらしく、今ではテレワークの休み時間や退勤後に、のんびりと文庫本をめくっている。横浜駅周辺の書店が軒並み閉店していて、そこが困っていることなのだが、そろそろamazonで注文する予定だ。新しい習慣をめったに導入しない性格のせいだろう、kindleもまだ導入しておらず、この機会に試してはどうかとも思ったのだが、一日中ディスプレイを眺めている生活は目が疲れるし、片頭痛持ちとしては幾分つらい。本当のところ、いくら家が狭くなるとしても、いまだに書籍は紙の媒体で欲しいのだ。それも、大型書店で中身を確認してから買いたい。

 さて、ディスプレイがどうこうと述べた後では矛盾するようだが、最近はcivilization 6もプレイしている。中毒性の高いことで知られているゲームだが、現に久しぶりにプレイしたときはかなり夜更かしをしてしまった。もっとも、最近は適度に飽きてきており、さほど睡眠時間を犠牲にせずに切り上げることができるようになった。それにしても、普段はあまりゲームをやらない人間の感想なのだが、実績(トロフィー)というのは面白い制度だ。実績というのは、ゲーム内で一定の行為をした場合メダルがもらえるシステムなのだけれど、中には相当意識したプレイをしないと解除できない実績もあり、同じような最適解に近いプレイをみつけてすぐにゲームに飽きてしまう、ということがないようになっている。よく考えられているものだ。

 

■第10回の講座までの予定

 長々と日記を書いてしまったが、ゲンロンSF創作講座の受講生として、これからどうしようかをメモしておこう。

 まず、最終実作の梗概の感想を書く。今まで実作の感想を記録してきたが、梗概は数が多かったので実作だけで手いっぱいだった。さっと一読して講座に臨むことが限界だったのだ。今はこうして時間が十分にあるので、それぞれの梗概から感じたことを記録しておきたい。

 それと、遠ざかっていたダールグレンラジオも視聴したい。別に自分の梗概に触れられないから拗ねていたわけではないのだが、自分は聴覚よりも視覚からの情報の処理を得意としており、音声だけではどれほど面白い内容でも、ふと集中力が途切れてしまう瞬間があるのだ。できることなら、全部聴いて自分の梗概感想との比較をしたいのだが、最低限自分の梗概に対する指摘だけは拾っておきたい。ついでに、現メンバーの公開している梗概の感想を見つけ、そこもチェックする。そのうえで最終実作を書いたほうが、きっと楽しいだろう。

 

■それ以降の予定

 さて、問題はそれ以降だ。たぶん、自分が最終実作を出したとしても、それが最優秀賞を取ることはないだろう。自分の持てるものをすべて投入したところで、その先を行っている人間がこれほどいると知ってしまった。諦めるのではない。最善は尽くす。それでもなお、勝てない公算が強い、というだけのことだ。そこに不満はない。自分がやりたいことをやりたいようになったのだから、そこで出てくる結果は比較的容易に受け入れられる。結果がすべてという表現は、過程そのものと過程に伴う楽しみを軽視しているようであまり好きではないのだが、やはり結果は厳然たるもので、梗概は一度も選ばれていない。

 今後の選択肢としては、来年も講座に参加するかしないか、同時によその公募に投稿するかしないか、そしてそもそも小説という表現手段を選び続けるかどうか、ということになる。

 ここで、そもそもなぜ自分が小説を書き始めたのか、について振り返っておこう。

 何かを書き始めたのは高校時代だ。その頃の創作は、詩であったり、架空の神話であったり、あるいは実在しない人物の短い伝記であった。思春期の常として、とにかく世界に何かを訴えたかったのだ。そのうちに、登場人物を自分の意のままに操る楽しみを覚え、友人との間でリレー小説を始めた*2

 そういうSF・ファンタジー的な傾向とは別に、告白的な純文学も大学で書き始めた。これは、自分が個人的に深く傷ついた経験を幾分突き放して書くことで、自己の客観視を狙ったものだった。当時の心境として、そうしたことを書かずにはいられなかった。作品として優れているかどうかは別の次元で、あれを書くことは自分の感情を整理するプロセスとしては必要であったし、結果的には自分の経験を言語化して伝えるいい練習になったと思っている。

 とはいえ、そういう自己治療の試みが功を奏したのだろうか、自分は小説を書かないと壊れてしまうのではないか、という生々しい恐れがどんどん薄れていってしまった。

 創作意欲というのは、身体の中の荒々しいエネルギーで、強すぎるとコントロールが効かずに作品全体をしばしば独りよがりにしてしまう。激しい怒りにかられた創作は、その怒りをコントロールするだけの苛烈なまでの意志の強さがないと破綻する。その一方で、弱すぎるとそもそも創作をしようという心境にならない。淡々と、起伏の少ない日記のようなものが生まれてしまう。誰かがクリエイターになるときには、この世に対する激しい憤りがあるか、欲しいものが決して現世では手に入らないという飢餓感が原点にある気がする。その個人的なトラウマを(時には小説以外の形で)十分に表現しきった後、自分のことだけを超えてまだ言いたいことがあるのだったら、つまり普遍性があるのなら、その人は作家としてやっていける気がする。自分のトラウマが癒えたとしても、まだ何か言い足りない、その感覚がクリエイターをクリエイターたらしめているのではなかろうか。

 閑話休題。自分にも面白い物語を書こう、という意識はまだある。それでも、どんなキャラクターを出そうか、あるいはどうやって話を盛り上げようか、とプロットを検討しているよりも、こうして日記らしきものを綴っているときのほうが楽しめているのではないか。そんな風に昨今は疑っている。

 自分の小説は、子どもが砂場で城を作り、山を築き、川を掘るときのように、自己完結的にものを弄り回しているときの楽しみであって、そこには読者が不在となってはいないだろうか。他人が読んだときどんな気分になるか、という計算が欠落してはいないか。

 あるいは、自分はこういう人間なのだ、と高校生の頃のように世間に訴えたいだけなのかもしれない。自分という存在をわかってもらいたい、受け入れてもらいたい、というだけのことなのだろうか。だとすれば、それは小説で表現するべき筋合いのことではない。

 なぜ書くか、それは何度も問い直す必要がある。自分はこういう人間だ、ということを承認してもらいたいのであれば、小説よりもエッセイやこういう日記のほうがずっと効率的だ。わざわざ架空の人間の話を書く、その必要は何なのか。さらにSFというジャンルである必然性は何か。技術によって変化していく人間の姿を通じて、いったい何を表現したいのか。未来の予測をしたいのであれば、これもまた小説である理由がない。

 もちろん、似たような感受性を持った人間の集まる場の居心地がいいから、そこに顔を出す、その一環として創作がある、というのも全然かまわないだろう。

 だが、これからやろうとしているような、感想をひたすら書いていくというのも、コミュニティ内部での居場所を作る方法の一つだ。小説でなくてもいい。

 もっとも、来年も全作品の感想をやるかどうかは不明だ。楽しいのは確かだが、自分が参加していない(かもしれない)講座の作品の全員分の感想を書くだけのモチベーションを保つのは、結構大変な気がするのだ。

 そういうわけで、ゲンロンSF創作講座に来年*3参加するか、休んで再来年にするか、そもそも小説を書き続けるかどうか、なんてことで迷っている、という冒頭の話に戻るのである。

 

■もう書けないかもしれないとは言うけれど

 自分は作家にはなれないのじゃないかな、という疑いがぐんぐん強まっている。

 でも、そこに苦痛はない。自分は商業に乗る表現者にはなれないかもしれない*4。だが、創作活動によって、多くのものを得た。それは、この講座での同期との良い関係性はもちろんで、それは言うまでもないことなのだけれど、それとは別に創作することの困難を知ることで、他人の書いた小説をより深く楽しめるようになった。

 それは、スポーツを観戦するにあたり、その経験者のほうがより深く楽しめるというのに似ている。選手がどこでどんな苦労をしているのか、あるいは満足のいかないプレイをしてしまったときにどこで引っかかっているのか、それが推測できるだけでもより深く楽しむことができるし、選手をより共感的に応援できる。地味で粘り強い鍛錬によって、試練を乗り越えた時に我がことのように喜べるのだ。

 良い作品のどこが良いか、そしてそれを生み出すまでの苦労がどれほどのものか、それを知っているだけでも作品を一歩踏み込んで鑑賞できるし、好きな作家により近づける読書ができるのではないか。そんなことを考えながら、今日もまたのんびりと読書をしている。

 

 以上。

 

*1:その花をそこに植えることを選んだ園芸家の作為はあるが、そこまで踏み込んで鑑賞しているわけではない。

*2:その時の友人がライトノベルの新人賞を受賞したので、自分もいけるのでは? と思ったことは否定しない。

*3:ウイルスでいつになるかわからないが……。

*4:文学フリマとかもありかもしれない。これもまた新型コロナウイルスでいつになるかわからないのが残念。