■横浜トリエンナーレ2020雑感
友人と四人でぞろぞろと、朝の十時から夕方の六時まで鑑賞した。それでも、映像作品が多かったので到底時間が足りなかった。
横浜トリエンナーレは高校時代に、芸術鑑賞会と称する学校の企画で出かけた記憶がある。確か、直腸を模したバー*1があったから、第2回のはずだ。皆勤賞だと思っていたのだが、どうやら記憶違いだったようだ。
こうして長いこと通っていると、何となくだが、作者の意図が全く理解できない、混沌をそのまま具象化したように見える作品が減って、現代社会にコミットしたものの割合が増えた気がする。言い換えれば言語化しやすいのである。そう思う理由の一つは、単純に作品の前に簡潔な解説がつくようになったからだろうし、もう一つの理由は、自分が幾分鑑賞するときのポイントの見分けがつくようになったからなのだろう。まったくわけのわからないものを見せられて唖然とする経験が好きな自分としては幾分寂しい気もするが、それなら解説を読まなければ済む話である。それに、解説が正しいという保証だってまったくない。
そんな中で、気になったのは飯山由貴の映像作品だった。時間も限られているのですべてを見たわけではないが、あらすじとしては次のようなものだ。精神疾患を持った家族の「自分は妖精であり、迫害を受けている」という妄想*2に耳を傾け、そのイメージを現実のものとしようとする。そして、家族みんなでムーミンの着ぐるみを身にまとい、近くの観音様にお参りをする。
なんで面白いと思ったのかを整理すると、一つには親戚とか知りあいとかの日常のホームビデオを見るような感覚を得られたからだ。精神疾患は深刻な問題だし、当事者はつらいのは間違いないのだろうが、患者の空想を現実のものとしようと家族が一緒に行動しているところには、患者に寄り添うというか、独特の世界観につきあおうと努力していて、第三者の勝手な感覚だが、どこか心温まるところがある。
もう一つ、穏やかな家庭の一幕的な感じがした理由は、空想を現実のものにする難しさだ。つまり、精神疾患を抱える姉妹の空想を現実にする試みは優しいものだが、当の姉妹はそれに対してどれくらいのリアリティというかありがたみを感じているのだろうか。クリスマスに、思っていたのと違うぬいぐるみをもらってしまったような、ありがたいのだけれど、親は自分の好きなアニメのことを何もわかっていなかったんだな、みたいな気分にはならなかったのだろうか。あるいは、自分がいざ欲しいものを手に入れた時の非現実感はなかったのだろうか。
さらには、この試みが極めて私的なものであり、他人の夢を聞いているような、とはいえそこまで突き放して耳を傾けることができない、浮遊感も独特の魅力の一つなのだろう*3。また、そばには精神病院のアーカイブに関しての作品・ドキュメンタリーもあり、面白かった。
言語化してみれば、大体こういうことになる。とはいえ、言語化してしまうことで分かったつもりになる、それはすごく危険なことだと思う。以前、ギュスターヴ・モロー展でそばにいた二人連れのお客さんが、「結局男性の描く女性像は、聖母と娼婦に集約される」と漏らしていたのだが、ここで話が終わってしまっていた。自分としては、それはすごくもったいないと感じたのだ。なぜなら、ここから思索をもっと深められるはずだからだ。
一般論としては、ではどういう過程を経て男性心理のなかで、女性像が聖母と娼婦に分裂*4するのか。あるいは、同じ男性でも聖母像と娼婦像が全然違うのはなぜか。生い立ちを比べてみると面白いのではないか。聖母と娼婦の入り混じったような、エドヴァルド・ムンクの作品に漂う不安と被害妄想的な雰囲気*5はどこから来るのか。藤田嗣治の人工的な楽園の聖母は、本当に安らぎを与えてくれるのか。では女性の男性像はどうなるのか、と疑問は尽きないのだ。
そういうわけで、頭だけで見ることの危うさというか、過度に言語化・抽象化することで作品から離れて行ってしまうリスクは存在しているはずだ。なので、作品に向き合う言語以前の経験と、それを精緻化するための言語化という二つの極を行ったり来たりするのが楽しいのだろう。
念のため述べておくと、トリエンナーレから変なものがなくなったわけではない。たとえば、海藻やプランクトン、エビを閉じ込めた水槽では物質が循環するので、日光さえ与えればエビは生き続けられるのに、なぜか繁殖しようとしないという事実がある。それに対して、どうすればエビがセクシーな気持ちになって繁殖してくれるか、というテーマの作品群がある。かなりふざけているが、言語化するとすれば、私たちにとってのセクシーさとは何か、他の生き物に成り代わって何かを感じることはできるか*6、あらゆる欲望の起源はどこにあるのか、みたいな話なんだろうけれど、まあ、とにかくへんてこりんだ。
あと、今回は旧レストランの台所や、トイレを作品の展示場所にした個所もあり、それについて語りたいこともあるが、まずはこの辺で。
■シュティフター「晩夏」
話は変わって、最近読んだ本について話そう。十九世紀オーストリアの物語だ。
ここ最近は、SFもメタフィクションも読みたくない。もちろん、最終選考会で酷評されたからである。素直に悪いところを直せば済む話なのだが、自分の救済のために書いた作品であり、思い入れも深い。実際のところ、自分の感じていたことをほぼそのまま書いたことですっきりしたし、過去に書いた作品そのものを手放すことは容易にできたのだが、このままでは決してプロになれまいだのなんだのといろいろと言われたので、感情的にはまだ気に食わないのである*7。
そういうわけで、十年ほど積んでいた本に手を出した。大学時代に友人が、毎年夏の終わりに読み終えようとするが挫折する、という理由で譲ってくれたものだ。鷹揚な友人で、読み終えた本をよくくれた。しかし、僕もどういうわけか手に取らずに置いていた。当時は、読みたい本リストが常に百冊以上ある状態であり*8、自分の欲求を満たすことが先であるように思われたからだ。しかし、この数日は図書館からも本がなかなか届かないことだし、ちょうどいい、と考えたのである。
「晩夏」のあらすじは極めて簡単だ。学者を志す青年が、山中の薔薇の美しい屋敷の主に雨宿りを乞う。やがてその主と親しくなり、彼の深い教養から薫陶を受け、毎年のようにそこで夏を過ごす。最後には彼の美しい養女と結ばれる。たったこれだけの話を文庫の上下巻、千ページ弱で述べている。
そういうわけだから、ネタバレをされて読む楽しみが失われる類の本ではなく、語りにぼんやりと浸る幸福な時間を楽しむべき種類の書物である。とはいえ、この書物ははっきり言って冗漫であり、退屈である。登場人物に品位があり、読んでいて気持ちはいいのだが、「もしもあなたが心からこう思うなら、わたしもそうしましょう」「ぜひ、よろしくお願いします、あなたのご好意をうれしく思います」式のやりとりばかりで、入り組んだ仮定法は礼儀正しいがくどい。それと、成功体験ばかり並んでいるので単調である。挫折がない。葛藤もほとんどない。悪の存在が希薄なのだ。あくどい読者の自分としては、主人公が専門を決めずにあらゆる学問を学ぼうとした結果、結局何者にもなれずに終わる、みたいなことを予期していたのだが、まったくそんなことはなかった。
自然科学や芸術への傾倒を丁寧に描く様子には、作者のこういう教育を若者に授けたいという願望が非常に強く表れており、良くも悪くも啓蒙的である。もちろん、明晰な文体で強い感情を描くのだけが文学だとは思わないし、むしろ好きな方向性だが、さすがの僕も幾分やり過ぎだと感じる。
どのくらいくどいかというと、まず語り手の生い立ちに始まり、青年が薔薇の屋敷にたどり着いてからは、屋敷の主人の口を借りて、作者にとっての理想の農村経営手法の説明が延々と得意げに続けられる。そのパートを読むのに一日半かかった。まだ読んでいないのだが、ユイスマンスなんかが「さかしま」でお気に入りを語るときはこんな感じだろうか。コレクションのすばらしさを語るのをやめない話し手は、一般教養が重んじられた時代ならもっと読まれたかもしれないが、読み通せる人は今となっては少ないことと思う。正直、最初の数十ページはプルーストよりもしんどかった。
あと、芸術による心情変化よりも美しいものそのものの描写が多い。嫌いではないが、SF創作講座で言われたのは、音楽をはじめとした芸術の美を地の文で表現するのではなく、周囲の人々の反応で示せ、ということであった。つまるところ、これはかなり自己満足的な部分を含んだ小説なのでは、という気にもさせられた。
では、どうして僕がこんな小説をわざわざ最後まで読み通したのか。一つには先ほども述べたように、SFもメタフィクションもしばらくは読みたくない、とすねているからだ。それと、僕自身の自己陶酔的な傾向が、シュティフターの幾分説明的に過ぎる文体に共感しているのかもしれない。だが、けっしてそれだけではない。はっきり言って退屈な箇所がほとんどであるが、僕は退屈さに癒されたところがあるのだ。考えてみれば、なぜ退屈に感じてしまうのかといえば、それは作者が個人的な思いを強く出し過ぎているからである。これには弊害もあるが、そこが作者らしさであるともいえる。つまるところ、私的で退屈な箇所をすべて切り捨てれば優れた芸術になるわけでもないだろう。もしも、そうした枝葉や余計な個所をすべて切り捨ててしまえば、その結果として出てくるのは類似した読後感ばかりではないか。微細な色合い、風味を失い、ただひたすらに強い感情の連なりが残ってしまわないか。つまるところ、適度な作者の自分語りは作者の人柄を明かし、他ならぬ作者が書いたという署名となるように思われる。自分とは異なる人間の意識に寄り添い、ゆったりと歩むこと。これは、上質なエッセイを読んでいるときの喜びに極めて近い。あるいは、現代美術で作者の私的背景が作品に織り込まれていると知った時の高揚にも似ている。
それに、疲れている身としては、その起伏の乏しさに救われたところが多い。また、映画でもそうだが、適度の退屈さ・不可解さ・難解さのある作品のほうが、頭と心に残る。退屈さによって実現する美があるからだ。そして、語り手の意図を能動的に考えなければならない作品のほうが、作者により近づけたように感じる。何度も思い出し、あのシーンにはこういう意図があったのではないかと思い至る。それを確かめるために、またページをめくるわけである。
難しいことは言うまい。この作品をたまたま手に取って癒された。それで十分だ。上に書いた、エンタメ的な文章への反発のような個所は、捨ててしまおう。
■今はそういう気分だ
自分自身のことを訴えて、小説にしたいという熱意は穏やかになっている。しかし、ならば誰の物語を書けばいいのかは、まだ見つけられていない。自分が自己表現をするための手段が、本当に商業小説なのか、厳しく疑ってかかる必要があるだろう。現に、今はこうして美術展の感想や、読書についての随想を、あてもなく綴っているが、これもまた楽しい。
以上。