アーティゾン美術館に行ってきた。

アーティゾン美術館は以前はブリヂストン美術館と呼ばれており、学生時代にもよく通ったものだが、2015年5月からビルの建て替え工事を行っていたため、訪れたのはそれ以来になる。再開したのは今年の1月だが、ご存じの通りコロナ禍で美術館は軒並み休業しており、結局足を運べたのが土曜日のことだった。

僕は東京駅の八重洲側を降りることはめったにない。三菱一号館東京ステーションギャラリーは丸の内側にあるからだ。千葉在住の友人と落ち合うために何度か八重洲側の居酒屋を使ったが、アーティゾン美術館の近くまで歩いたのは本当に5年ぶりだ。しかし、周囲の建物はそれほど記憶とは異なっておらず、向かいにある画材屋もそのままだったため、学生時代に突然サークルの女子にこの近辺にいきなり呼び出されたこともあった、と想起した。呼び出された理由はまったくくだらないことで、恋愛沙汰とはまったく関係ないので、書いたところで面白くない。よって、省く。

さて、アーティゾン美術館で立ち入ることができるのは1階から6階までだ。入場料を支払うのが1階、ミュージアムショップが2階、受付が3階。あとはエレベータで6階まで上がり、エスカレータで5階を経て4階へ下りながら鑑賞する。上りながら鑑賞する東京都美術館とは逆である。

以下、鑑賞した順番に述べる。

 

ジャム・セッション 石橋財団コレクション×鴻池朋子 鴻池朋子 ちゅうがえり

この「ジャム・セッション」というのは、アーティゾン美術館の収蔵品と現代作家の作品を並べて共鳴させたり、収蔵品からインスパイアされた新作を展示したりするというコンセプトだそうだ。例えば今回は、クールベの作品と一緒に並んでいた。

で、鴻池朋子というひとの作品は、ずっと前に横浜で「根源的暴力」という展示をやっていたので見に行こうと思っていたのだが、結局行けなかったので、楽しみにしていた。

テーマには暴力という言葉が入っているけれども、血みどろでグロテスクだったりショッキングだったりというよりは、自分と他者が触れ合うときの必然的な痛み、自然と関わるときにどうしても神聖なものを侵犯してしまうときの震え、に近い。一見すると穏やかに見えるけれども、じっと見てみると、世界に関わることでできてしまうすり傷を感じられる。

そうした一見すると穏やかな雰囲気の中で、ハンセン病患者の隔離された島での生活にまつわる作品だとか、害獣として駆除されぶら下げられた獣の毛皮だとかを見ていくと、これらがただつらく悲しいだけではなく、別の感情もこもっていることが感じ取れる。例えばハンセン病患者の島で、散歩するための道を森を切り開くことで作った記録は、ただひたすら受動的に苦難に耐えたというよりも、いかに自分らしく生きるかを能動的に追求した営みのようにも見える。強制収容は間違いなく人権侵害だが、その不条理の中でただ屈しただけではない一面も見えてくる。他にも、世界各地の人々が手縫いで自分の記憶を綴った作品もあり、記憶を語るとはどういうことか、についても向き合うことになる、

いろいろ思うのだけれど、怖くはないが暴力的な物語/世界ってのは結構ある気がするし、逆に誰のことも傷つけない物語/世界もたぶんない。他者とのかかわりでは摩擦は必然で、痛みは伴うのだから、痛みをただなくすとだけいうのは何か違っている気がする。ただ、痛みからいつでも自由に逃げられるようになっている必要があるし、鋭い痛みを覚えるときであってもそれは人を委縮させるものではなく、成長を促すものであってほしい。

このあたりの話、幾分抽象的に書きすぎているかもしれない。

 

第 58 回ヴェネチア・ビエンナーレ国際美術展 日本館展示帰国展 Cosmo- Eggs| 宇宙の卵

文字通り、かつてイタリアで開催されていた美術展のインスタレーションを再現したものだ。専門を異にするアーティストが集い、異質なものとの共存をテーマにしている。

インスタレーションの中心には卵の黄身のようなソファがあり、そこからは透明で細い管がつながっている。その管を空気が伝わっており、自動演奏されるリコーダーに導かれている。だから、ソファに腰掛けるとあちこちから奇妙な音が漏れる。

周囲にははるかな昔に津波によって打ち上げられた石周囲や、打ち寄せる波際の白黒映像がループしており、その映像の裏手には架空の海洋文明の神話が書かれている。

聞こえてくるのはさざ波ではなく風による不協和音なのだが、それがどういうわけか心地よい。不可解なリコーダーの響きは自然界の音と同じような数理に支配されているからなのだろうか。説明によれば、この音響は安野太郎というひとのゾンビ音楽というものだそうで、ある一定のルールに従って自動的に音が奏でられる仕組みになっている。ゾンビというのは、人間ではない、人間の意志が介在していない、ということだろうか。

これで思い出したのは、以前駒場博物館に展示されていた、割り算の剰余の結果によって自動的に音が鳴る木でできたからくり仕掛けのことで、マリオメーカーかマインクラフトで二進法の計算をしてみせる装置に似ていたのだが、どうしても名前が思い出せない。個人的には、情緒的な音楽が厳密な数理によって支配されているのが何となく好きだ。

 

石橋財団コレクション選 特集コーナー展示 新収蔵作品特別展示:パウル・クレー

石橋財団コレクション選 特集コーナー展示 印象派の女性画家たち

ブリヂストン美術館時代から、ここの常設展にはお気に入りの作品がたくさんあったのだけれども、4階ではそれらの作品と5年ぶりに再会することができて、とても幸せな時間を過ごした。

僕はなぜかカイユボットの「ピアノを弾く若い男」が好きだった。理由はわからない。ただ、窓からカーテン越しにうっすらと見える外の景色をのぞいてみたいとずっと思っていた。そこから街路を見おろしたとき、どんな素敵な風景が広がっているだろうか、と空想していた覚えがある。横浜美術館のヌード展*1で、CHRISTOPHER RICHARD WYNNE NEVINSONの「A studio in Montparnasse」*2の前に立った時も、同じような気持ちになった。絵の中に入り込めるものなら、こうした窓のある作品がいい。

他にも、多くの新収蔵作品と出会うことができたので、非常に楽しめた。

クレーの作品と聞けば、枯木のような人物が何か抽象的な空間にいるイメージが浮かぶが、まるで色とりどりのタイルを思わせるものや、Tシャツのデザインのようなものもあり、そうしたイメージを覆す作品も多数あった。記憶とはいかに単純化してしまうものかを思い知らされた。そういうわけで、ある画家だけに着目した企画展は面白いものだ。ある種のブランド・イメージが確立されていく歴史的過程を見ることができるためだ。同様の理由で、メアリー・カサットの作品に新しく触れられたのもよかった。

 

その後

ミュージアムショップでかわいらしいペンを買い、カフェで目の前の工事を眺めながら*3生イチジクを乗せたトーストとアッサムティをいただいた。この手の先が丸くなっているペン、ときどき紐がほつれてきて、余計な方向にインクの跡を残していくことがあるのだけれども、書くときに疲れないのと、筆画の終端が丸くなるので優しい印象を与えるので好きだ。

で、帰ろうと思ったらうっかりと曲がる方向を間違えて銀座方面に歩いてしまった。ブリヂストン美術館とは出入り口の面している通りが違っていたから間違えたのだ。

*1:身体による表現と人間の弱さやはかなさに真摯に向き合ったここ数年で最高の企画展だった。

*2:横文字にしたのは別に気取っているのではなくて、検索しやすくするためだ。

*3:何を作っているのだろう?