近況(2021年3月)

■最近の読書傾向

三月になり、やっとまっとうにSFを読めるようになった。今まで読めていなかった理由はもちろん、昨年八月の最終選考会で腹を立てたからである。指摘された多くの難点は事実であり、理屈のうえでは納得できるものではあったが、「このままではあなたの末路は同人しか書けない人間だ」と言われては、「わかりました。でも、二度とあなたの作品を読むことはないでしょう」と言い返したくなるほどの屈辱感を覚えた。自分はあまり人に対して腹を立てないが、一度閾値を超えると数か月単位でそこに執着する傾向がある。そして、何よりも悔しかったのは、その指摘が正しく、反論できなかったからである。

しかし、これほどの怒りを持ったもうひとつの理由は、おそらくそれだけ本気で取り組んだからだろう。ならば、これはある意味では一つの勲章である。怒りの大部分を手放すことに成功した今となっては、そう思える。やっぱりSFって面白いよね。

 

■祖父との別離

それと大体同じ時期に、父方の祖父を亡くした。もともと別居していたし、前々から寿命が近づいているらしいことは聞いていたので*1心理的なダメージは比較的少ない。つねづね本人の希望として、「最後まで自宅で過ごしたい。病院食ではなく家で好きなものを食べたい。祖母よりも先に逝きたい*2」と口にしていたが、それはすべて叶ったことになる。それに、自分が年末年始に周囲の反対を押し切って会いに行ったというのもあり、自分がやり残したと感じていることがほとんどない。基本的には感謝の念しか残っておらず、そこはありがたいことだ。家族葬でうまく見送ることができたと感じている。

 

■三月は別離の季節

祖父との死別と同列に並べるのもどうかと思うが、今年の三月は自分が様々なものと別れたり、距離を置いたりすることについて考えた時期でもあった。例えば、今まで何かと相談に乗っていただいていたカウンセラーの先生*3と距離を置くことにした。これは、先生がご高齢ということもあるし、他に相談できる同世代の相手もたくさん見つかったからでもある。何度も述べるが、自分の悩みは自分の病状をいかに受け入れるかと、恋人ができないことについてに尽きており、それがほぼ解決している以上、卒業しても構わないと思われた。

それから、奇しくもエヴァンゲリオンが完結した。若干のネタバレになるが、作品のテーマの一つが「別離と感謝、対象の喪失とその受容、傷つけた相手への謝罪」であり、実際に人と別れたり、創作活動への執着を手放そうとしていたりした、今の自分の気分とぴったり重なった。エヴァンゲリオンというのは不思議な作品で、視聴者の気分によって受け取るものがかなり変わってくる。僕は今回の結末が好きだが、Qを公開した時期に荒れていた僕のことを思えば、このエンディングを受け入れるのにも、やっぱり八年を要したと思う*4

 

■摂取すべき作品というこだわりを捨てること

読むことと書くこと、これは自分の青春時代の中核をなしてきた。しかし、これらに対して依存していたのも事実であり、いたずらに知識を手に入れようとしていた当時は、目指すべきゴールのあてもなく息苦しさもあった。こうした自縄自縛から、昨今は自由になりつつある。

そもそもSFや文学に必読書なんてものはないし、無理に多読する必要だってない。自分にとって不可欠な作品というのはなく、偶然の出会いを大切にすればいい。昔のように、自意識をこじらせた不幸せな人物の物語によってしか救われない自分でもない。

また、文学ではなく知識によって虚無を埋めようという気にもならない。もしかしたら、自分の在り様を受容できるようになったからかもしれないが、今はそれなりに満たされている。

同様の理屈で、難解な映画も観なくなった。友人との付き合いで鑑賞することもあるが、こうしたこじれた作品がなければ生きていけないという思いはしない。世間の人々と自分が違った感受性を持っていることを、ことさらに訴えようとも思わない。また、難解なアニメも観ようとは思わない。かつては、これらを無理に小説に取り込むために視聴しており、なんとしてでも多数の作品を鑑賞しなければならないと意気込んでいたが、自分の感情が求めていないものをむりに求めたところで、心には何も残らない。なお悪いことに、娯楽がお勉強に代わってしまう。疲れるだけだ。

クラシック音楽からも離れ始めている。元々、一般教養としてある程度のメロディは頭に入れておきたいという思いはあったが、好きだった曲もどんどん忘れて行っている。しかも、そのことで寂しいとは感じていない。音楽という支えがなくても、毎日を平穏に過ごせているのなら、無理に聞いたところで食傷してしまうだけだ。

 

■書かねばならないという義務感を放棄すること

ここ半年、創作からは遠ざかっている。かつては創作に数年のブランクもあったことがあるので、あまり心配はしていないが、万一戻ってこられないとしても、自分を不幸だとは思わない。

直近で悩んでいるのは、強烈なキャラクターを作るうえでの困難だ。また、かけた労力と時間から得られる対価も少ないことも、自分に小説ではなくエッセイ的なものを書かせてしまう理由だ。ダイアローグなどの勉強をせずに小説を読んでもらおうともらうのはおこがましいかもしれないが、小説という神様にこれ以上に時間とエネルギーという捧げものをするのが段々きつくなってきた。帰宅して寝る間も惜しんでプロットを考え、何千文字か書く。で、これで家庭を持ったら、それこそどうすればいいのだ? そのうえ、これでお金をもらおうというつもりもなくなってきており、助言の通り同人で、つまりは趣味でやり続けるのが賢明なのではないかという気までしてくる。しかも、なんとしてでも世間に訴えたいテーマが自分に残っているわけでもない。

はてな匿名ダイアリーでバズる文章を書くことにも飽きつつある。そこで自意識を満たしたところで、何かいいことがあるわけでもない。この記事の原型も、そこで放流しようかとも思ったが、SF創作講座に参加した方に読んでいただいたほうが意義はあるだろうと思い、ここに記すことにした。

 

■ありえた別の可能性を忘れること

小説家になるという可能性は、自分にとっては別の人生の可能性だった。それは、大学で対人関係に行き詰まり、就職した先でもなかなかうまくいかなかった自分が、夢見続けてきた脱出口だった。けれども、今はもっと居心地のいい職場で何とかやっている。特に年収が高いわけではないが、後輩の指導にやりがいを感じている。執筆や、ネタ探しという空想にすがって毎日をやり過ごす必要はなくなっている。

研究者になるという別の夢も忘れることにした。もともと、自分は文理の垣根を越えた関心を持っており、別の分野の研究や発見も面白いと感じるたちで、近頃までは天文学者になることを空想していたものだった。人生をやる直すことができたら、と夢見ていたのだ。そして、それを別の自分が「まさに負け組の発想だ」と嘲笑っていた。

でも、自分がやりたかったのは単にいろいろなことを知ることで、毎日同じテーマにしつこく挑み続けることではなかった。自分の性格上、一つの課題に目標を絞り続けることはできなかったことだろう。さらには英文での執筆や後輩の論文の添削、不規則な勤務や、研究トレンドの把握。終わりがない。考えただけでため息が出る。寝ても覚めてもそれが好きだという自然界の現象は、自分にはなかった。同様の理屈で、作家と似たような理由で憧れていたサイエンスライターへの道も、難しいものだと考えている。これがもしも文系の研究者だったら、多くの外国語の勉強も必要になってくる。

自分にとっては、安心できる環境でほどほどに仕事をして、趣味も楽しむ、くらいが身の丈に合っている。親戚はもっと出世していたり高収入だったりするが、つまるところ自分の人生なのだ。好きなようにすればいい。そういう環境は自分にとってはつらいだけだ。遺伝子のせいか育ちのせいかわからないが、他人と比較したところで無意味である。

 

■へし折られたプライドの後には何が残るか

こうして、余計な荷物を捨ててしまうことで身軽になれた。なんだったら、読書という最大の趣味だって手放してもいい。今の自分にとっては、大切な人をどうやってたくさん笑わせられるか、相手にどれだけ時間を割けるかが最優先だ。創作したくなったとしても、通勤の読書の時間を削り、執筆にあてたっていい。

でも、逆説的に、こうして余計なナルシシズムやこだわりを捨てたからこそ、好きな作品をリラックスして楽しめるようになってきた。自分の身体のリズムに逆らって、読みたくもないときに読もうとしたところで楽しくもなんともない。

生きるうえでの楽しみは義務ではなく、自分がそうしたいと思ったからそうしているだけのことだ。昨今は家を出ない日は本を読まず、簡単な家事をするほかにはひたすら寝ている。幸福になるためには、あたたかな寝床があれば十分だ。

これが敗北宣言として受け止められたってかまわない。どう思われようと自分が好きなようにするだけのこと、どうだっていいことだ。

 

以上。

*1:見てもなんとなくわかった。

*2:これは、妻が夫の世話をすることの多い世代だということを考えても、かなり祖母の負担になってしまっていたと思う。母は父に「自分はそこまであなたの面倒は見切れませんからね」と述べ、父も「そこまでやってほしくない」とも返事している。

*3:創作活動についてもいろいろお話しした。

*4:ここまでハマれる作品は当分ないかもしれないのは寂しいことだが、どっぷりはまると疲れる。