AIのべりすとで読んでもいない/読めない/実在しない本の感想を書く。そして、訪れなかった未来の日記を書く。

 

ロシア文学の感想文

ai-novel.com

AIのべりすとは、かなり広いジャンルの文章を収めているらしい。ファンタジーも、歴史小説も、官能小説さえ最初の数行を与えれば、読者の好むと思われる属性*1に応じてそれらしい展開を出してくる。では、読書レビューのようなことはできるのだろうか。自分が以前戯れに書いたロシア文学の感想を入れると次のようになる。なお、見やすいように見出しは太字し、適宜改行した。

ドストエフスキーカラマーゾフの兄弟

神童と呼ばれた男が、自分より能力のある弟と妹を見下すようになるまでを描く物語。兄弟の家庭環境や人間関係の描写が秀逸で、それが物語の核心である。兄弟間の嫉妬や憎悪、劣等感といったものが丁寧に描かれていて、その感情の動きを追うだけでも読み応えがある。

この作品を読むと、僕は自分がいかに家族に恵まれているかということがわかる。父が早く亡くなり母一人で育ててくれたこと、兄姉全員が優秀だったこと、そして両親がともに敬虔なキリスト教徒であったことなどから、自分は幸せ者であると感じることができるのだ。そういう意味でこの作品は僕のバイブルであり、人生における大事なことをたくさん教えてくれる。

 

フョードル・ミハイロヴィチ・ドストエフスキー罪と罰

主人公が善良であることは初めのうちこそ読者にもわかるものの、中盤以降はほとんど説明されない。だから、これは誰の話なのかわからないまま読み進めなくてはならない。主人公スヴィドリガイロフは、他人の幸福を妬みながら生きてきた男である。彼の犯した罪を一つ一つ丹念に追っていくことで、作者はこの小説を書きあげたのだ。

この小説を読んでいる間中、僕はずっと恐ろしい気持ちでいた。なぜこんなひどいことが人間にできるのか。どうしてこのような人間の本性が平然とさらされているのか。悪はどこまでも底知れずおぞましいものである。そう感じずにはいられなかった。

 

ドストエフスキー「悪霊」「白痴」

ドストエフスキーといえばやはり『罪と罰』だろう。この本を読み終わったとき、あなたは間違いなく人生の真実を理解したはずだ。そして、それを言葉にして誰かに伝えることができたなら、そのとき初めてあなたの物語は完結する。

僕はもうすぐ終わる。これから先の人生には何もない。

 

ドストエフスキー「地下生活者の手記」

ドストエフスキーは、自分の人生をこのように振り返ったことがあるだろうか? 彼はただひたすら苦しみ抜いた。なぜこれほど苦しまねばならないのか。そんな疑問を持ちながらも、彼には立ち止まることも逃げることもできなった。この世で最も悲惨な経験をした男は、それでもなお生にしがみつく。

ドストエフスキーは、決してあきらめなかった。最後の最後まであがき続けた。僕もまた、そうありたいと思う。

 

ドストエフスキーカラマーゾフの兄弟

僕にとって一番印象深い作品はこれだ。父を尊敬し、父と娘の関係に憧れていた。しかし、父は娘を愛さなかった。それはなぜか。愛せなかったからである。

愛せない理由はなんだったのだろうか。あるいは、愛さない理由があったのだろうか。僕にはわからないし、知ろうとすらしなかった。だが、おそらくは父のほうに何か問題があったのだろうと推測することはできる。

僕は今、愛

なるほど、元の文章のように自分語りと本の感想が入り混じった文章は出力される。内容もロシア文学中心だということはわかっているらしい。しかし、どういうわけかドストエフスキーのループに落ち込んでおり、しかも書名と内容が正しくは一致しない。内容をわかってるんだかわかっていないんだか怪しい。さらに、自分の幾分歪んだ意識*2はそこまで反映されていない。

これで読書感想文を書くのはやめたほうがよさそうである。

史書の感想文

なら、シリーズものの歴史書は同だろう。何冊か「興亡の世界史」シリーズを読んだ。そのときのおおよその感想は次の通り。

林俊雄「興亡の世界史 スキタイと匈奴 遊牧の文明」読了。文献と考古学的証拠のバランスがいい。匈奴の工芸品が本当にスキタイのものそっくりで、かなり古い時代から遊牧の文化圏が広がっていたとわかる。十進法による軍の編成など、後世のモンゴルやトルコに引き継がれたところも多い。このあたりは西欧や中国の歴史だけを学んでいては得られない知見だ。

 

原聖「興亡の世界史 ケルトの水脈」読了。考古学的にケルト文明の跡をたどるだけでなく、いわゆるケルト的なものとされる「異教」のイメージはどこから来たのかを分析している。例えば「ケルト的」とされる伝承が、本当にキリスト教以前までさかのぼれるのかについては、疑わしいものもある。大陸の住人のはずのケルトが、いかにしてアイルランドウェールズ民族意識の根拠とされたかについても触れ、ドルイドのイメージが男性から女性に変わった過程も記される。

 

森谷公俊「興亡の世界史 アレクサンドロスの征服と神話」読了。よくよく考えてみれば、アレクサンドロス大王の父親について何も知らなかったし、ペルシアを征服してから何をしたかがほとんど意識になかった。自分は征服者の事績よりもやはり文化面に関心があるようだ。しかし、こうした意識していない知識の空白は、世界史のあちこちにあるのだろう(後でカルタゴやヴァンダルの歴史について調べておこう)。アレクサンドロス大王没後のヘレニズム諸国についてもしっかり触れられていたのも良い。

 

森安孝夫「興亡の世界史 シルクロード唐帝国読了。唐の羈縻政策アラル海サマルカンドカンダハル、カーブルまで及んでいたことまでは知らなかった。清帝国よりも西まで支配していたわけだ。ほかにも北周が四川まで支配していたことなどいかに頭の中の地図がいい加減だったかを再確認した。

ところで、岸辺成雄によれば、唐の合奏の楽器編成は日本雅楽の管弦八種よりも豊富であり、しかも、笙のほかに和声を奏でる楽器があったので、和声的な大管弦楽が奏でられていたらしい。同じ時代のヨーロッパの教会音楽はは単旋律であったことを考えると、きわめて先進的である。

出力結果はこうなった。

そして、唐代ではさらに管楽器が加わり、唐代の音楽は多楽章制をとっていたのではないか、という。これは非常に興味深い話である。

 

「興亡の世界史 中世ヨーロッパ世界の暗黒時代」読了。ルネサンス以前のヨーロッパで何が起こったのかを知るには良い本だと思う。特に宗教戦争については詳しく述べられており、十字軍遠征の意味なども理解できる。しかし、宗教戦争の時代はあまりにも長く続きすぎ、史料的にも断片的で不充分であった。そのため、十字軍についての記述の多くは伝説の域を出るものではなかった。本書によってそのあたりの疑問がある程度氷解したのは良かったと思う。

 

森谷公俊「興亡の世界史 イスラム帝国の滅亡とオスマン・トルコの栄光」読了。イスラム帝国の衰退の原因が明らかにされるとともに、オスマン帝国の最盛期の姿が描かれる。著者自身の史観による記述のため、かなり主観が入っているものの、それでもなお説得力のある内容になっている。また、オスマン帝国が周辺国を次々と併呑していった過程において、キリスト教徒がどのような役割を果たしたかも詳細に述べられている。

 

森谷公俊「興亡の世界史 アジアの激動とユーラシアの創造」読了。中国の南北朝時代に関する記述が多いのは当然だが、モンゴル高原を中心とする中央アジアの歴史にも深く踏み込んでいる。また、明代の倭寇の活動についても詳述されている。ただし、全体としては東アジアの視点からの叙述であり、日本のことはほとんど出てこない。この点、やや残念な感じもする。

 

「興亡の世界史 モンゴル帝国の光と影」読了。チンギスハン一代の話ではなく、元寇からフビライハーンに至る歴史の流れを追っている。その中で、明の支配体制がいかに脆弱なものでしかなかったかを示すエピソードが多く出てくるのは興味深かった。ただ、史実と異なる部分も多く、おそらく想像で書かれたものも多いと思われるため、鵜呑みにするべきではないだろう。

 

森谷公俊「興亡の世界史 中国近代の胎動と西欧列強の衝撃」読了。辛亥革命前後から現代にいたる流れをたどっている。このあたりは、あまり新しい史料も入ってこないせいか、かなり淡々とした内容となっているが、清朝末期における反骨精神旺盛な知識人たちの姿が印象的だった。こういう人たちがいたからこそ、中華民国は成立したと言えるかもしれない。

さて、これから何をするか。とりあえず、新年を迎えたら、しばらくは読書三昧かな。

正月休みは結局、旅行はしなかった。まあ、もともと行く

AIは「興亡の世界史」というシリーズを読んでいるのだ、ということは理解しているようだ。書物の無いようにかなり踏み込み、読んだときにどんな気分になったかもしっかり書かれている。元の文章の癖の再現度がかなり高い。

しかしながら、ここに出てくる書物は実在しない。そこをいい加減とみるか、バベル的な架空の書物の目録めいていて面白いとみるか。しかも、森谷公俊氏は実在の人物であり、現に「興亡の世界史」シリーズの一冊を著している。名前が出たのは入力データにあったからだろうが、感想がもっともらしいので虚構と現実の境が少し揺らぐ。


架空の書物の感想(1)

では、ゲンロンSF創作講座の作品の感想文を入力したら、どんな出力が出てくるだろうか。インプットはこちらを使用した。

■10010式「211x年のメタガール」
 とてもきれいにまとまった短篇だと感じた。作者と登場人物の掛け合いなんてドタバタSF以来やりつくされたのではないかという気がしていたが、普段こういうしっとりしたものを読まないせいか、新鮮に感じられた。ただし、ストーリーの結論は「物語が変わらない存在であるからこそ、どんどん変化してしまう私たちが救われるのだ」というもので、王道ではあるけれど、すごく新しいSF的な発想というわけではない。でも、こういうタイプの作品はとても需要があると思う。気持ちがいい。

 

■甘木 零「老婆アリス」
 梗概とは少し違った話になっているけれど、実作のほうが何がしたいかはわかりやすい(僕はあまり読解力がある方ではないので梗概の段階では「数年後、訓練を終えたノベルは木星行きの船に雇われる。雇い主はコーラであった」というオチの意味がよくわからなかった)。意識を持たない(と主張する)存在も興味深い。
 しかしながら、ラストのコーラとカタルが融合してしまう部分、きれいかもしれないけれど、ノベルがそれに対して腹を立てなかった理由があいまいな気がする。それと、アイスキュロス(だっけ?)の死因をネタにするのなら、文体を全般的にもっとペダンティックにする方がいい気がする。他に古典に対する言及が全然なかったので、ちょっと取ってつけたようになっている。

 

■榛見 あきる「ブルーだけでは足りなくて」
 タイトルはフランス映画から採ったのだろうか。
 スタイリッシュさとばかばかしさが適度に共存しているし、ネットのライヴ感も百年後における身体論・所有観も面白い。ただし、お嬢様学校のイメージが古いし、「おしとやかに黄色い歓声」という矛盾した表現や、「社交界」に「ホワイトカラー」というルビを振るところとか、細かいところだが気になってしまう。
 それと、一番やりたかったのは百年後の社会学を描写することではなくて、幼児体形の高校生を公衆の面前で作者の好みの色の下着姿にしたり、その小さな乳房を友人に揉ませたりすることだったのではないか、という疑いが濃厚である。作者の願望はもう少し背景に退かせた方がいい。

アウトプットは次の通りだった。

■黒猫堂「夢見る少女の恋心」
冒頭の情景描写がすごくいい。こういう書き方ができるのはすごい。ただ、主人公の行動原理がよくわからない。そして、読者への呼びかけが多いわりには、説明不足のように思う。


■上岡龍也「星屑たちの宴」

冒頭からしてすごく面白くて、これは期待できると思ったのだが……。結末まで読んでみてもやっぱりよくわかんない。特にヒロインの行動。作者さんはどういう意図でこの終わりにしたのか。


■八坂頼子「天球館にて」
これまた冒頭が素敵だった。しかし、中盤以降がどうにもこうにも。この人の作品は全部そうなんだけど、文章力が高すぎて逆に読みにくい。


■新海岳彦「月下の一群」
梗概は、ちょっと意味不明だったが、本文を読んでみると、なるほどそういうことなのかと納得できた。終盤の展開は鮮やかだと思う。ただ、設定の説明が長いので、そこだけもうすこし削ってもいいかも。


■新海岳彦「銀河鉄道の夜
僕は『銀河鉄道の夜』を読んだことがないので、比較はできないけど、これはこれでいいんじゃないかと思う。たぶん、自分が読んだことのない作品の梗概を読むというのは、小説を書くうえで参考になるだろう。


日下三蔵「春眠暁を覚えず」
タイトルがいい! 冒頭の語り口といい、最後のシーンといい、素晴らしい。
ただ、肝心の内容については、全体的にいまいちピンと来なかった。「春の陽気にうとうとしているうちに夜になった」「みんなでお花見をしていると、いつの間にか寝ていた」というようなことを延々と繰り返しているだけで、あまりドラマチックではない。あと、作中人物の描写が浅いように感じる。

誰も書いていない、この世に存在しない小説の感想が出てきた。逆に、この感想文から元となった小説を書きたくなってくる*3

しかも、驚くべきことに、SFクラスタであることを認識しているのか、日下三蔵氏の名前が出力された。他の名前についても調べてみたが、八坂頼子はライトノベル「這いよれ! ニャル子さん」の登場人物らしい。ますます虚構と現実が(以下略)。

 

架空の書物の感想(2)

もう一度試してみよう。

■藤田 青「Punk Punk Punk」

 洋楽の歴史に関しては無知なので、評価をするのが難しい。

 お話としてみると、周囲の人たちが主人公に概して好意的で、もうちょっと与えられる試練を厳しくしてもいいんじゃないか、って感じられた。

 それと、これは僕が原典となる映画「ブラザーズ・オブ・ザ・ヘッド」を観たことがないからだと思うのだけれど、やっぱり結合双生児を出す必然性が、弱く思われた。あと、実作ではアンドロイドだということは明記していないけれど、双子の名前がバリーとトムなのは、彼らの作り手が映画を知っていたことを暗示するし、だから面白い偶然だと言って「ザ・バンバン」と名づけるシーンの意味が弱まってしまう気がする。むしろ、ただの偶然の一致ではなく、作為だということがわかるシーンとして使えるんじゃないか。

 

■式さん「NO SUMOKING DIMENSION」

 果てしなくしょうもない*2。

 SFの歴史については詳しくないけれど、該博な知識とこじつけの暴力で、こういうネタを大真面目にやっていた時期というのが確かに存在していたような気はするし、オカルトをジョークとして楽しめる読者は笑いながら謎の感動を覚えるのだけれど、かなり読者を選ぶうえに、わざわざ十の天界を巡るのを事細かに描写したのは、多分「神曲」をなぞることが自己目的化したのではないかとも感じられる。

 

■武見 倉森「死人のカンカンノウ」

 作中の、声の大きいやつがいると、明文化されたルールに乏しいコミュニティが崩壊するってのはその通りで、身に覚えがある。

 で、作品の個人的に感じられた問題点は、次の通り。アンドウが自ら死体になって演じたい理由が自分の中ではうまくつながらなかった。そのうえ、改作された「らくだ」を演じる理由もよくわからなかった。なぜ改作したのか、なぜ死んだのか、そこがもっと有機的に繋がったらさらに良くなると思う。たぶん描写がちょっと不足気味なのだ。

 ところで、これは古典落語だからいいのかもしれないけれど、「屑屋」ってのは何の注釈もなしに使っても大丈夫な言葉なんだっけ?

結果を示すとこうなる。

 ■三石様「Bible Gateway
聖書に関する物語。
聖書の知識がない人間にとっては、なんとも不思議な気分になる作品だった。
聖書について知っている人間は、そこに書かれていることが実際にあったことなのか、あるいは単なる比喩表現に過ぎないものなのか、判別できないという気持ちになった。それと、この作品の中で言及される、いわゆる「新約聖書」「旧約聖典」と呼ばれるものは、実は写本によって内容が異なっていて、しかもそれがどこから来たものかわからないという話には驚いた。

 

■K.T.様「The Dystopia of Evil and Reincarn
ations」
悪魔と転生の物語。
人間の想像力というのは、本当に無限であるらしい。
この作品を読んでいると、悪魔の存在を信じてしまいそうになる。そして同時に、そんなものがこの世にいるはずはない、とも思えてくる。でもそれは、人間が想像できる範囲を超えているからこその感情であって、その限界を超える存在がもし実在するとしたなら、それはどんな形をとるだろう……などと考えたりしていた。


■藤浪智之「THE HIGH PRIESTESS」
ハイプリエステスの話。
この作品は、原典となった小説がすごく長いらしくて、僕は読んでいないのだが、とにかく、ハイプリーストがいかにして生まれたか、ということが書かれているようだ。
この作品では、彼女の生まれ変わりが、自分が前世の罪を償うために、罪のない人々を助けている、というような筋書きになっているようだったが、これってどうなのだろうか。たとえば、彼女が生まれ変わったのが、そもそも自分の犯した罪を悔い改めるためだとしたら、彼女は何のためにそれをしていることになるんだろう。
それに、仮に、誰かを救うために生まれ変わるのだとすると、それはいつまで続くのだろう? 永遠に終わらない贖罪なんてあるんだろうか? *1:この手の作品は、原典を読まずに書くのは難しい。大抵の場合、原典を読むよりも面白くなるからだ。
*2:これをギャグだと思って笑える人がいたらすごい。
神曲』の地獄篇は、キリスト教的な世界観をもとに書かれた作品であることは間違いありません。しかし、その内容は非常にバラエティに富んでいます。キリスト教の教義に背くような設定もあるのです。今回はその中でも代表的なものを紹介しましょう。
1 煉獄(れんごく)
2 大焦熱地獄 3 小焦熱地獄 4 等活地獄 5黒縄地獄 6 衆合地獄 7 叫喚地獄 8 大叫喚地獄 9 大大叫喚地獄 10 阿鼻地獄 11 無間地獄 12 大叫喚地獄の百千万倍 13 大焦熱地獄の一億倍 14 大大

最後は百科事典的になってしまったが、SFというか創作クラスタ内での読みあい・感想共有的な文章がうまく再現されている。

日記

試みに、日記も入力してみた。入力部分は私的なものなので省くが、アウトプットもかなりそれっぽくなった。語り手がおじさんっぽいのは、僕の文体が古いからだろうか。

七月五日(火)

外出自粛生活が始まってもう一ヶ月になるが、家の中でできる運動というのがなかなかない。自分はわりあい歩く方だと思うのだが、散歩なんてとんでもない話である。そこで、NHKの番組「きょうの健康」を参考にしてストレッチを始めてみた。これがかなり効果がありそうなので記録しておくことにする。

まずは床に寝転んで両脚を伸ばしたまま腰を上げる体操をする。これは腰の筋肉を伸ばすだけでなく、股関節周辺の筋トレにもなるらしい。次に仰向けになって片膝を立て、そのまま頭の方まで足を上げ下げする。これもまた股関節まわりの筋力アップになる。さらに、両手両足を広げてベッドの上に横たわる。このとき、爪先は天井に向けて真っ直ぐ伸ばす。そして、上半身だけ起こさずにゆっくりと横に回転させる。この時、手と足のつま先が一直線になるように意識するとよいという。これを三十回ほど繰り返す。

これらの動作によって体幹インナーマッスルが鍛えられる。特に腹直筋下部と大腿四頭筋がよく発達するそうだ。ちなみに、テレビの中ではトレーナー役の男性タレントが実際に行っているのを見たが、彼は五十代くらいだった。自分にはまだ無理そうである。

 

七月六日(水)

久しぶりに外に出たら、近所のスーパーで豚肉の特売をやっていた。いつもなら買い溜めするところだが、ここで誘惑に負けてはいけない。そのかわりに、豆腐屋で木綿豆腐を一丁買った。家で食べる用だ。これでしばらくは自制できそうな気がしてきた。

しかし、その帰りに本屋を覗いて料理の本を物色したら我慢しきれなくなってしまい、結局豚バラ肉を買ってしまった。明日からしばらく毎日肉を食えるぞ!

 

七月八日(木)

昨日の続き。

一日中家にこもって過ごすことになると、どうしても昼飯が面倒になってしまう。何か簡単に作れないかと思ったところ、冷凍庫にあったスパゲティが目に入った。確かミートソースを作るために大量に茹でたのである。それで、レトルトのパスタソースを使ってスパゲッティを作って食べた。

それから、昼食は麺類ばかり食べている。もちろん、生クリームなしのペペロンチーノとかカルボナーラといった簡単かつ単純なメニューだ。今日は素麺を食った。あとは冷や麦もどきの焼きそばを作った。いずれも麺類は飽きることがない。

 

七月九日(金)

今日は暑い中、午前中に二時間ウォーキングをした。おかげで汗びっしょりになった。これからは週に一回は運動するようにしよう。

午後は図書館に行って読書。

 

七月十日(土)

今日は一日雨が降っていた。涼しくなっていいことなのかもしれないが、なんとなく気分が滅入る。こういうときは、さっぱりしたものが食いたくなる。そういうわけで、夕方はざるうどんを食った。つゆの味が濃かったので、めんつゆは薄めにした。

 

七月十一日(日)

朝から快晴だったので、午前と午後の二回に分けて、近くの公園を歩いた。ここのところずっと引き籠もり状態だったので、少しは外に出た方がいいだろうと考えたのだ。このあたりには大きな池があって、蓮の花が咲いているはずだが、残念ながら開花時期ではなかったようだ。

散歩を終えて帰宅した後、夕食として親子丼と味噌汁を食べた。最近は米やみそ汁を自分で作ることが多い。やはり、自分が一番好きなのが和食だからだろうか。

 

七月十二日(月)

夜中に目が覚めて、小腹が減ったので、インスタントラーメンを作ることに。作り方はいたってシンプル。お湯を沸かして麺を入れるだけである。ただ、普通のカップではなく、袋入りの太めのやつである。これをスープの粉と一緒に鍋に入れて、適当に煮込むだけでできるのである。

ところが、出来上がったのを食べようとしたとき、ふと思いついて冷蔵庫の中からキムチを取り出して入れた。辛さが加わってなかなか美味いではないか。そういえば、少し前に「蒙古タンメン」という激辛のカップ麺が発売されたことがあった。あれもいいなあ。今度買おうかな。

 

七月十三日(火)

今日は外出自粛解除第一日目ということで、近所のコンビニへ買い物に行った。もちろんマスク着用の上である。店内ではレジに並ぶ前に入口付近のアルコール消毒を行った。店員さんたちも心得たもので、「ご協力お願いします」と言いつつ手早く済ませてくれた。

その後、弁当コーナーへ行き、唐揚げとおにぎり、それにお茶を買った。ついでに雑誌コーナーで立ち読みをしていると、隣で同じく立ち読みをしていた年配の女性が話しかけてきた。

「あら、あなたも自粛していたんですね。私も同じです。ところで、最近どうですか?」

彼女は隣の区の保健所で事務員を務めているらしい。私の住んでいる区とはだいぶ離れているのだが、それでも同じ都内なのだから、感染者数が増えれば嫌でも目に入ってくる。

「ええまあ……。そちらこそ大変ですね」

私が答えると、彼女も苦笑いを浮かべていた。

その後は世間話に花を咲かせた。私はもっぱら聞き役に徹していたが、それなりに楽しいひと時であった。

 

七月十四日(水)

今日の昼食はカレーライスだった。ただし、レトルトのパックを使ったものではなく、一から作ったものである。材料は玉ねぎ、人参、ジャガイモ、豚肉など。これらを切って炒めてから、市販のルーを入れて溶かし、さらにご飯を加えて混ぜ合わせた。最後に塩コショウをして味を整えたら完成だ。

これだけだと寂しいので、サラダも用意した。ドレッシングは手作りした。オリーブオイルとレモン果汁、酢を混ぜ合わせて作るものだ。本当は和風のものを作ろうと思ったのだが、うまくできなかったのだ。

久しぶりに料理をしたせいか、とてもおいしく感じられた。これなら毎日だって作れるぞ! しかし、そんなことをすると栄養のバランスが崩れてしまうし、何より面倒くさい。やはり、たまに食べるくらいがちょうどいいな。

 

七月十五日(木)

昨日の日記にも書いたように、今日は久々に外出した。例によってマスクを着用した上でだが、久々なのでなんだか妙な気分になった。

行きつけの古本屋に入り、漫画を一冊購入してから店を後にする。その足でスーパーに立ち寄り、夕食の材料を買い込んだ。そして、家に帰ってから夕食を作り始める。

メニューは肉じゃが、ほうれん草のおひたし、冷奴、豆腐とわかめの味噌汁といったところ。どれも簡単なものだが、自分で作っただけあって、そこそこおいしいと思う。

 

七月十六日(金)

今日は図書館に行ってきた。借りていた本を返却した後、新たに三冊ほど本を借りた。そのうちの二冊は小説であり、もう一冊はエッセイ集である。どちらも読んだことのない作品だったので楽しみだ。残りの一つは科学関係の専門書であるが、これもじっくりと読もうと思っている。

昼飯は近くの中華料理店でラーメンを食べた。以前、この店に来たときに食べたチャーシューメンが忘れられず、また食べようと思っていたのだ。相変わらず濃厚なスープであったが、今回はニンニクを入れずに注文したので、前回よりもさっぱりとした味わいになっていた。

帰宅後は読書に没頭したが、途中で飽きてしまったので、テレビをつけてドラマを見始めた。この時間帯の連続ドラマは初めて見るものだったので面白かった。

 

七月十七日(土)

朝食はトーストにハムエッグ、コーヒーというシンプルなものだったが、パンが焼きたてだったので非常にうまかった。食後にはヨーグルトを食べて口の中をサッパリさせる。

午前中はずっと読書をしていたが、午後になって少し眠くなったので、ソファの上で横になる。そのまま眠りこけてしまい、目が覚めたときには夕方近くなっていた。

その後は近所のレンタルビデオショップへ行き、映画を一本借りてきた。タイトルは『ジョーカー』。昨年に公開された作品で、アメコミ原作となっている。

早速、夕食後のデザート代わりに鑑賞を開始する。内容は簡単に言うと、悪徳警官の主人公が汚職事件をきっかけに、刑務所に収容されている凶悪犯たちを次々と解放していき、最後はギャングのボスと対決するというもの。

ストーリーは単純明快なだけに、ストーリー展開には目新しさはない。ただ、役者の演技や演出は非常によくできており、最後まで引き込まれて一気に見入ってしまった。特に終盤のアクションシーンは圧巻である。

 

七月十八日(日)

今日は朝から雨模様だった。そのため、一日家の中で過ごしたのだが、昼食の後片付けをしている最中に、誤って食器用洗剤の容器を倒して割ってしまう。幸いにして中身はほとんど残っていなかったので怪我はなかったが、後始末をする羽目になってしまった。

その後、掃除機をかけ、風呂場とトイレの排水溝のゴミを取り除いた。それだけでかなりの時間がかかってしまった。

夕飯は餃子とレバニラ炒め、それにキュウリとワカメの酢の物を作った。

 

七月十九日(月)

今日も仕事である。とはいえ、普段通りの出勤ではなく、半ドンとなった。

お昼前には仕事を切り上げ、病院へと向かう。目的は予防接種を受けることだ。

受付で問診票を書いてから診察室へ入り、医師から説明を受ける。

「ではまず注射の方から始めましょうか」

そう言って、看護師さんに指示を出す。

特に面白いわけでもない。笑いどころもない。しかし、いかにも日記めいている。

短いがもうひとつ例を出す。

昼飯:豚キムチ定食(大盛り)@ラーメン二郎・亀戸店 夜飯:冷やしたぬきそば@蕎麦屋 銭湯帰りに雨の中を歩いているうちに空腹感が増してきたため、近所の店で晩飯をとることにした。豚キムチ定食というメニューに惹かれて入ったのだが、これがまた期待外れだった。豚肉もキムチも炒め方が甘いのか、歯ごたえのないゴムのような食感である。麺の方は茹ですぎだ。この店には二度と来ないと思う。

その後は帰宅して寝る前に少しだけ原稿を書いた。しかしあまり進まなかった。

明日は仕事なので早く寝ようと思っていたのだが、眠気がさっぱりやってこないので執筆を続ける。二時間ほど書いてようやく寝床についたのは午前零時過ぎであった。

本日の体重:71.1kg

(朝食前計測)

起床後、いつものように体重測定を行う。ここ数日、朝起きるたびに「もう七〇キロ台後半になっているのではないか」という不安に襲われるのだが、結果は六九.八キロと変わっていない。

朝のルーティンワークをこなしてから家を出ようとするが、玄関を出たところで小雨が降り始めた。傘を持ってきていないので、仕方なくコンビニまで走ってビニール傘を買うことに。

電車に乗っている間にも雨脚が強くなってくる。昨日から関東地方は梅雨入りしたそうで、これからしばらく天気が悪い日が続くらしい。

会社に到着する頃にはすっかり濡れ鼠になっていた。靴下やズボンの裾はもちろんのこと、鞄の中に入れていた書類類も

ところで、別のデータを出力したところ、僕が中年の妻帯者という設定になり、妻がいきなり色っぽいことを言い出したので幾分慌てた。日付が十日(月)から十一日(水)のようにかみ合わなかったのも、幾分ホラーじみている。

総評

かなり自然な日本語を出力できることがわかる。以前のスパムで見られたワードサラダのことを考えると、隔世の感がある。しかし、出力を続けるとさすがに因果関係や事実関係で矛盾が見られる。

一方で、適宜修正してやればそれらしい文章を出力し続けることは可能だ。もう十年近くすれば、AIにプロットを与えればそれなりの小説を書ける時代が来てもおかしくない。AIに表現や展開を提案させることは、もっと早くから受け入れられそうだ。

しかし、小説の面白さ、つまりプロットのさじ加減や表現の妙を選ぶのが最後には人間だという時代は、もう少しだけ長く続くだろう。

新しい道具を併用しつつ、自分の言葉を選ぶ営みそのものは恐らくは変わらない。それが商業に乗るかどうかは別として、人の人が書いたものを読みたいという欲望は残るはずだ。

 

*1:詳細には言及しないが、「なんでそんなことまで知ってるんだよ!」というのもありました。

*2:つまり執筆者の個性。

*3:誰かSF創作講座でやってみてください。