近況

ある日のことである。
入院している祖父の病状について説明を受けるため、実家に戻っている母と叔母が病院まで出向くことになった。そのあいだ、認知症の祖母の様子を見ていてほしいと頼まれた。そこで半休を取り、タクシーで駆け付けたのだが、そのタクシーの運転手さんから自分がいかにモテなかったかを延々と語られ、いたたまれない気持ちになった。
この運転手さん、こちらのプライベートについて踏み込んできたので、これは少し苦情を言ったほうがいいだろうかと思い、所属している会社を調べたら、県下で最も評判の悪いタクシー屋の一つであったとさ。なので、これは苦情を言ってもダメだろうな、と諦めた。

それはさておき。自分が書いてきた作品のうち、このおじさんのモテなかった自慢の域から脱しているものがどれほどあるだろうか。そんな疑いにさいなまれてしまったのである。

自分にとっての何度も書いてしまうテーマは、自分を苦しめてきた疾患と、自分には魅力がないのではないかという疑念である。しかし、これは小説として語るに値するのだろうか。
もちろん個々人の苦しみには平等に価値があるとはいえ、我がことを離れた普遍性を持って書けていただろうか。あるいは、時代のはやりに乗れるだろうか。そんなことを思うのである。
そんなことよりも、自分の抱えている問題については、行動して何とかしてしまうのがずっといい。確かに、行動して挫折した経験を作品にしていた面もあるけれど、失敗を振り返るなら小説でなくて日記でよくないか?

先ほど、おじさんの話からいたたまれない気持ちになったと書いたけれども、自分が小説を書くときのモチベーションの一つが、こういういたたまれない気持ちになったことを頭の中から追い出すことである。傍らで見ていて悲しくなったこと、見ていてしんどくなる姿、そんなものを小説の中の光景として表現することで、自分にとって受け入れられる形に変換しようとしたのだ。
しかし、これは嫌なことを何度も反芻することにも似ている。小説にしなくても自分がその出来事を消化できるようになってしまえば、飲み込みやすくするために小説にする意味がどれほどあるのか。今ひとつわからない。今までは書かないと正気を失ってしまうという危機感があったのだが、それがすっかり失われてしまっている。

正気を失う! まさにそういう生々しい実感があった。言いたいことや伝えたいことで頭がいっぱいで居ても立っても居られずに、毎日のように数千字を書いていた。かつては四六時中小説のことを考えていたのだ。なのに、創作意欲が驚くほど消えてしまった。ずっと暇なときは大抵プロットを出すかアイディアを出すか空想するかしていたのに、その習慣がきれいに消えてしまった。確かに楽にはなった。けれども、こうして書かない/書けないことにまつわる愚痴を書きたくなるほどには、確かに創作は長い間自分の習慣だった。

もちろん、試みなかったわけではない。一度編集にプロットを送り没になっている。また、「ファウスト」と「十二国記」を合わせたみたいな設定を頭の中で練ったこともある。例えば王に即位すると残りの寿命がきっかり五十年になる世界で、どんなふうに世を治めるか(死にかけた人間を無理やり王にするとか、そんなあらすじを考えた)。逆に、寿命がわからないが必ず死に際の光景が見えるので、その運命を延期させようと奮闘するギリシア悲劇めいた王の話とか。王の寿命は五百年、重臣は三百年、そんな時間の流れを持つ世界だとか。
しかし、自分の心の底から出てきた設定ではなく、どうしても表現したいテーマやキャラがあるわけでもなく、そのまま宙に浮いている。設定は思い浮かぶのに、こういうキャラクターやストーリーを表現したいというのが見当たらない。

SF的なものも難しい。SFとして面白い思い付きや設定が浮かんでも、それをキャラの対立として表現できるのか。ただの論文というか議論になってしまわないか。そこに罠があり、いつもここでつまずいている。つまずいたまま、止まってしまった。
今となっては何でもいいので文章を書きたいという感覚は、仕事中にふと浮かぶもので、それは仕事をさぼりたい気持ちにほかならず、現に帰宅しては軽く家事をして運動して、それで一日が終わっていく。

このままでは小説以外の文章も書けなくなると危機感を持ち、村上春樹カズオ・イシグロの作品についてはてな匿名ダイアリーにつづったこともある。ブックマークはだいたい四十と三十。悪くない。しかし、フィクションは全くアウトプットできていない。AIのべりすとに続きを書かせてたわむれる程度だ。
小説よりもエッセイやレポートのほうが向いているのでは? いや、誰かにこういうのを書いてほしいというリクエストを受けつけてはどうだ? はたまた二次創作は? 自分の性癖を満たすための小説は? そんな考えが頭にぐるぐるしている。

ときおり強烈に、同期にまた会いたい、それで同人誌に参加したい、何らかの形で創作にかかわり続けたいという思いに駆られることもある。だが、三千文字のフィクションさえ書くことができるかどうかの自信さえ失っている。何かを架空の他人に仮託して、数万文字を何ヶ月もかけて書くことに限界を感じている。
それとも、またSF創作講座の全作品読んでレビューをすれば戻って来られるだろうか? マシュマロの公式ツイッターにあったように、短い嘘日記を書けば虚構を作り出す能力は復活するんだろうか?

なぜ書けなくなってしまったのかを突き詰めると、やっぱり自分を信じられなくなったからだろう。自分の頭の中のヴィジョンは何にも代えがたく、自分の表現したい熱意は枯れることがなく、自分の文章は最高だとは思い込めなくなってしまった。ただし、自分の悩みこそが世界で一番深いという思い込みで小説を書いていたならば、悩みに対してやり過ごす方法を覚えてしまえば、ある種の純文学は書けなくなる。他人のことを書こうとしない限りは。

自信を失ったきっかけは、やはり心を込めた作品に対し、最終選考で厳しい言葉が並んだためで、その言葉を浴びせた特定の数人のせいだ、といつの間にか思い込んでいたのだけれども、当時の日記を振り返ってみると、それよりは、実作を出しまくってもなかなか伸びなかったことや、他人の伸びるスピードの速さのウエイトが大きかったようだ。このように、人間とは一般的に単純な物語とわかりやすい敵を求めるものなのだと、再確認している。ああ怖い。日記をつけていてよかった。

それで、小説を書かなくなった時間は何をしているのかと言えば、任天堂のフィットボクシングである。身体を動かすことは、しんどい経験を言語化していくのと同じくらい心身の健康にプラスだ。

こういう時に、以前にかけられた「才能がある」とか「頭がいい」との言葉を思い出すと、息苦しくなることがあって、何でかっていうと、自分の中の無意識の前提として、「その能力で何かをなさないといけない」というのがあり、そこが刺激されるからなのだろう。別にそんなことないのにね。何かを成し遂げるべきだというのも一つの価値観に過ぎないのだ。

とはいえ、こういう形であっても、気持ちを整理するためだけでも、文章を書くこと自体は苦痛ではない、というか楽しいと思ってしまうので困ったものだ。やれやれ!

さて、なんだかモテない自慢のおじさんについて書いたことが、そしてなんで書いていないかという言い訳が、このブログの最新記事になってしまうのはなんだか悲しいので、ゲームについて次の記事にでもまとめようと思う。

【追記】

書けなくなったとしても、人生最後の日に後悔しそうな感じがしないし、なにか悩んでいることがあったら、身近な人とゆっくり話すほうが、幸せになれるような気がしている。

【追記2】

何か小説を書きたいという漠然とした思いの根っこは自己受容の試みだ。道徳的に不完全な自分自身を受け入れるために、人間の愚かさを表現する小説という形式に落とし込もうとしていたのだ。