宇部詠一(ubea1)のブログ

ゲンロンSF創作講座をはじめとする物事の覚え書き。

近況(2021年3月)

■最近の読書傾向

三月になり、やっとまっとうにSFを読めるようになった。今まで読めていなかった理由はもちろん、昨年八月の最終選考会で腹を立てたからである。指摘された多くの難点は事実であり、理屈のうえでは納得できるものではあったが、「このままではあなたの末路は同人しか書けない人間だ」と言われては、「わかりました。でも、二度とあなたの作品を読むことはないでしょう」と言い返したくなるほどの屈辱感を覚えた。自分はあまり人に対して腹を立てないが、一度閾値を超えると数か月単位でそこに執着する傾向がある。そして、何よりも悔しかったのは、その指摘が正しく、反論できなかったからである。

しかし、これほどの怒りを持ったもうひとつの理由は、おそらくそれだけ本気で取り組んだからだろう。ならば、これはある意味では一つの勲章である。怒りの大部分を手放すことに成功した今となっては、そう思える。やっぱりSFって面白いよね。

 

■祖父との別離

それと大体同じ時期に、父方の祖父を亡くした。もともと別居していたし、前々から寿命が近づいているらしいことは聞いていたので*1心理的なダメージは比較的少ない。つねづね本人の希望として、「最後まで自宅で過ごしたい。病院食ではなく家で好きなものを食べたい。祖母よりも先に逝きたい*2」と口にしていたが、それはすべて叶ったことになる。それに、自分が年末年始に周囲の反対を押し切って彼女の写真を見せに行ったというのもあり、自分がやり残したと感じていることがほとんどない。基本的には感謝の念しか残っておらず、そこはありがたいことだ。家族葬でうまく見送ることができたと感じている。

 

■三月は別離の季節

祖父との死別と同列に並べるのもどうかと思うが、今年の三月は自分が様々なものと別れたり、距離を置いたりすることについて考えた時期でもあった。例えば、今まで何かと相談に乗っていただいていたカウンセラーの先生*3と距離を置くことにした。これは、先生がご高齢ということもあるし、他に相談できる同世代の相手もたくさん見つかったからでもある。何度も述べるが、自分の悩みは自分の病状をいかに受け入れるかと、恋人ができないことについてに尽きており、それがほぼ解決している以上、卒業しても構わないと思われた。

それから、奇しくもエヴァンゲリオンが完結した。若干のネタバレになるが、作品のテーマの一つが「別離と感謝、対象の喪失とその受容、傷つけた相手への謝罪」であり、実際に人と別れたり、創作活動への執着を手放そうとしていたりした、今の自分の気分とぴったり重なった。エヴァンゲリオンというのは不思議な作品で、視聴者の気分によって受け取るものがかなり変わってくる。僕は今回の結末が好きだが、Qを公開した時期に荒れていた僕のことを思えば、このエンディングを受け入れるのにも、やっぱり八年を要したと思う*4

 

■摂取すべき作品というこだわりを捨てること

読むことと書くこと、これは自分の青春時代の中核をなしてきた。しかし、これらに対して依存していたのも事実であり、いたずらに知識を手に入れようとしていた当時は、目指すべきゴールのあてもなく息苦しさもあった。こうした自縄自縛から、昨今は自由になりつつある。

そもそもSFや文学に必読書なんてものはないし、無理に多読する必要だってない。自分にとって不可欠な作品というのはなく、偶然の出会いを大切にすればいい。昔のように、自意識をこじらせた不幸せな人物の物語によってしか救われない自分でもない。

また、文学ではなく知識によって虚無を埋めようという気にもならない。もしかしたら、自分の在り様を受容できるようになったからかもしれないが、今はそれなりに満たされている。

同様の理屈で、難解な映画も観なくなった。友人との付き合いで鑑賞することもあるが、こうしたこじれた作品がなければ生きていけないという思いはしない。世間の人々と自分が違った感受性を持っていることを、ことさらに訴えようとも思わない。また、難解なアニメも観ようとは思わない。かつては、これらを無理に小説に取り込むために視聴しており、なんとしてでも多数の作品を鑑賞しなければならないと意気込んでいたが、自分の感情が求めていないものをむりに求めたところで、心には何も残らない。なお悪いことに、娯楽がお勉強に代わってしまう。疲れるだけだ。

クラシック音楽からも離れ始めている。元々、一般教養としてある程度のメロディは頭に入れておきたいという思いはあったが、好きだった曲もどんどん忘れて行っている。しかも、そのことで寂しいとは感じていない。音楽という支えがなくても、毎日を平穏に過ごせているのなら、無理に聞いたところで食傷してしまうだけだ。

 

■書かねばならないという義務感を放棄すること

ここ半年、創作からは遠ざかっている。かつては創作に数年のブランクもあったことがあるので、あまり心配はしていないが、万一戻ってこられないとしても、自分を不幸だとは思わない。

直近で悩んでいるのは、強烈なキャラクターを作るうえでの困難だ。また、かけた労力と時間から得られる対価も少ないことも、自分に小説ではなくエッセイ的なものを書かせてしまう理由だ。ダイアローグなどの勉強をせずに小説を読んでもらおうともらうのはおこがましいかもしれないが、小説という神様にこれ以上に時間とエネルギーという捧げものをするのが段々きつくなってきた。帰宅して寝る間も惜しんでプロットを考え、何千文字か書く。で、これで家庭を持ったら、それこそどうすればいいのだ? そのうえ、これでお金をもらおうというつもりもなくなってきており、助言の通り同人で、つまりは趣味でやり続けるのが賢明なのではないかという気までしてくる。しかも、なんとしてでも世間に訴えたいテーマが自分に残っているわけでもない。

はてな匿名ダイアリーでバズる文章を書くことにも飽きつつある。そこで自意識を満たしたところで、何かいいことがあるわけでもない。この記事の原型も、そこで放流しようかとも思ったが、SF創作講座に参加した方に読んでいただいたほうが意義はあるだろうと思い、ここに記すことにした。

 

■ありえた別の可能性を忘れること

小説家になるという可能性は、自分にとっては別の人生の可能性だった。それは、大学で対人関係に行き詰まり、就職した先でもなかなかうまくいかなかった自分が、夢見続けてきた脱出口だった。けれども、今はもっと居心地のいい職場で何とかやっている。特に年収が高いわけではないが、後輩の指導にやりがいを感じている。執筆や、ネタ探しという空想にすがって毎日をやり過ごす必要はなくなっている。

研究者になるという別の夢も忘れることにした。もともと、自分は文理の垣根を越えた関心を持っており、別の分野の研究や発見も面白いと感じるたちで、近頃までは天文学者になることを空想していたものだった。人生をやる直すことができたら、と夢見ていたのだ。そして、それを別の自分が「まさに負け組の発想だ」と嘲笑っていた。

でも、自分がやりたかったのは単にいろいろなことを知ることで、毎日同じテーマにしつこく挑み続けることではなかった。自分の性格上、一つの課題に目標を絞り続けることはできなかったことだろう。さらには英文での執筆や後輩の論文の添削、不規則な勤務や、研究トレンドの把握。終わりがない。考えただけでため息が出る。寝ても覚めてもそれが好きだという自然界の現象は、自分にはなかった。同様の理屈で、作家と似たような理由で憧れていたサイエンスライターへの道も、難しいものだと考えている。これがもしも文系の研究者だったら、多くの外国語の勉強も必要になってくる。

自分にとっては、安心できる環境でほどほどに仕事をして、趣味も楽しむ、くらいが身の丈に合っている。親戚はもっと出世していたり高収入だったりするが、つまるところ自分の人生なのだ。好きなようにすればいい。そういう環境は自分にとってはつらいだけだ。遺伝子のせいか育ちのせいかわからないが、他人と比較したところで無意味である。

 

■へし折られたプライドの後には何が残るか

こうして、余計な荷物を捨ててしまうことで身軽になれた。なんだったら、読書という最大の趣味だって手放してもいい。今の自分にとっては、大切な人をどうやってたくさん笑わせられるか、相手にどれだけ時間を割けるかが最優先だ。創作したくなったとしても、通勤の読書の時間を削り、執筆にあてたっていい。

でも、逆説的に、こうして余計なナルシシズムやこだわりを捨てたからこそ、好きな作品をリラックスして楽しめるようになってきた。自分の身体のリズムに逆らって、読みたくもないときに読もうとしたところで楽しくもなんともない。

生きるうえでの楽しみは義務ではなく、自分がそうしたいと思ったからそうしているだけのことだ。昨今は家を出ない日は本を読まず、簡単な家事をするほかにはひたすら寝ている。幸福になるためには、あたたかな寝床があれば十分だ。

これが敗北宣言として受け止められたってかまわない。どう思われようと自分が好きなようにするだけのこと、どうだっていいことだ。

 

以上。

*1:見てもなんとなくわかった。

*2:これは、妻が夫の世話をすることの多い世代だということを考えても、かなり祖母の負担になってしまっていたと思う。母は父に「自分はそこまであなたの面倒は見切れませんからね」と述べ、父も「そこまでやってほしくない」とも返事している。

*3:創作活動についてもいろいろお話しした。

*4:ここまでハマれる作品は当分ないかもしれないのは寂しいことだが、どっぷりはまると疲れる。

異性のキャラを書くときに心がけていること

■はじめに

小説を書くときには、言うまでもなく自分とは別の立場にいる人の考えや気持ちを想定する。国籍、人種、年齢、宗教。そもそも人間でないキャラクターだって登場させられる。その中で一番の壁のひとつが、おそらくは性別だ。

自分は、基本的にはどんなものであっても表現していいと思っているが、それには自分の能力の及ぶ限り*1、書く対象のことを調べてからというただし書きが付く。それでお金をもらうつもりならばなおさらだ。人様の苦しみを描写して食べていくつもりなら、通すべき筋というものがあるだろう。

さて、以下にゲンロンSF創作講座で書いた作品のうち、比較的評判のよかったものと悪かったものを例にとって、自分が女性を書くときに心がけたことを説明する。我田引水ではあるが、そのときにどんなことを想定していたかを共有することで、講座の水準の底上げを図りたい。

なお、これは男性が女性を書くうえでの不完全なヒントとなることを想定しているが、女性が男性を描写する上での指針になることも期待している。

 

■女性と男性の差異を少ないものとして想定する

「枯木伝」に出てくる女性大生は、比較的硬い文章を書いていた自分の新境地だと評価されたし、割とリアルな女性だとも言われた。しかし、意外に思われるかもしれないが、自分はこのキャラクターを特に女性らしく表現しようとは思っていなかった。むしろ、これは男性である自分の生の感覚をほぼそのまま文章にしている。自転車に乗って疲れたとか、親戚の集まりがめんどくさいとか。

これは宇部詠一という人物の感覚が元から女性的なのであって、多くの男性にとってはあまり有効なアドバイスではない、という反論もあるかもしれない。しかし、女性と男性の差異は、多くの人が思っているよりも少ないのではないかという気もしている。基本的な身体構造はかなり共通しており、食事をし、排泄をし、睡眠をとるという本能も同じだ。恋人がいないのに交際相手の有無を聞かれたらうんざりするし、異性の身体についてふと素朴な疑問を持つこともあるだろう。あとは、女性あるいは男性ならではの事情を付け加えれば、それっぽくなるように思う。この時、ある種のふてぶてしさと言っては語弊があるが、異性にとって当たり前だと想定される感覚は、説明や言い訳をせず、当然のものとしてポンと放り出すとリアルだ。

ただし、この方法は、基本的には男性も女性もほぼ同じように育てられた世代にしか通用しない可能性がある。あるいは、自分は女性である、男性であるということに強烈な自負を持った肉食系のモテキャラを書く上では限界があるかもしれない。大体、自分が男性であることを意識するのはトイレに立つときくらいだという僕が、まあ大体同じようなゆるい考えの女性を書いたからそれっぽくなったというだけのことかもしれない。しかし、自分の異性バージョンを書いてみるのは、最初の第一歩としてはいい練習になるはずだ。

 

■男女差は少ないかもしれないけれども、時として決定的だ

上の項目で述べた方法が常にうまくいくとは限らない。現実に、女性が様々な面で不利な立場に置かれることは多く、それを全く表現しないのはリアリティがなくなる原因になる。炎上するしない以前に、面白くないものになる。「枯木伝」のなかでも、作品の主題でこそないものの、女性だから我慢しないといけない目にあわされていることをほんの少しにおわせている。男性を書くときにも、男性が社会の中で担ってほしい期待されがちな役割が何であるかをリストアップしておいて、通奏低音として流しておくとリアリティが出るだろう。なお、短編であるからこの程度の濃度でしか描写していないが、長編の場合プロットのレベルで組み込んでおく必要があると考えている。キャラクターがその属性ゆえに受ける扱いの差によって、ストーリーの進み方や主人公の選択は異なってくるはずだからだ。

もうひとつ書いておきたいのは、男女間の意識の違いだ。これは過度の一般化に陥ることがあるのであまりやりたくないのだが、マーガレット・アトウッドの言葉を引用しよう。「基本的に、女性は男性に殺されることを恐れている。一方、男性は女性に笑われることを恐れている」。これを日常の言葉に直すと、自分はこうなると考えている。「男性は、女性がどれほど男性の物理的な腕力を怖いと感じ、男性の心無い言葉で傷つくかを、忘れがちだ。女性は、男性が(特に男性としての)プライドをへし折られたときにどれほど屈辱感を感じ、特に女性に笑われたときに怒りを覚えるかを気づいていないことが多い」。世にあふれる男女のすれ違いを表現した言葉の中では、かなり的を射ていると思うのだがどうだろう。

もちろん、女性から男性への暴力もたくさんあるし*2、男性が女性の業績を軽んじて屈辱感を覚えさせる例も多々ある*3。当たり前のことだ。とはいえ、この一般的な傾向を覚えておくと、「このキャラはなぜここで腹を立てないのだろう」みたいな違和感は、作品からかなり減らせるように思う。

「愛と友情を失い、異国の物語から慰めを得ようとした語り部の話」のなかで、主人公に対してヒロインから残酷な拒絶の言葉を吐かせたのは、こういうところでリアリティを深めようとした意図もある。彼女の怒りは当然だが、その怒りの言葉で主人公をどれほど落ち込ませるかを、ヒロインは全く考えていない。

 

■よく観察しよう!

実のところ、これもリアリティ追求のため、これは自分の周囲を観察して起きたことを取り込んだものだ。正確ないきさつは違うし、主人公のように屈辱的な目に合ったわけではない。しかし、異性との感覚との違いに驚き、面白いと感じ、時としてぎょっとした経験というのは、誰にもあるもと思う*4。そうしたことを作品に取り込むと、キャラクターの実在感がぐっと増すはずだ。特に、不快感を覚えた事例は、作品に嫌なリアリティを持ち込むときに便利なので、異性から失礼なことをされたときは、社内コンプライアンスに報告すると同時に、クリエイターとしては頭の中のネタ帳に書き留めておくといい。

少し話がずれるが、自分はヒロインのキャラクターを作るときに、作者の自分が思わずイラっとする欠点を持ち込むことが多い。そうすることで、意図的に自分の理想とする女性にしてしまうことを防げるからだ。言い換えると、僕の願望を満たすお人形みたいなヒロインばかりを量産しなくて済む。それから、これはスクリプトドクターの本にも書かれていたが、作者が思わずイラつくキャラクターというのは、作中でひどい目に合わせても良心が痛まず、話を盛り上げやすいので好都合だ。

もちろん、この作戦がうまくいくとも限らない。「縮退宇宙」では我の強く口の悪いキャラクターを出したのだが、幾分やりすぎたようだ*5

 

■上記方法の限界

「縮退宇宙」の話が出たついでに書く。この小説のもう一つの欠点が、以前遠野よあけ氏からも指摘を受けたが、母と娘の確執の描写に難点があるということだった。確かにこの話はどちらかといえば父と娘、あるいは父と息子でやったほうがより適切であったようにも思う*6。遠未来だから男性・女性の対立軸が弱まっていることも想定できるが、それを読むのは現代の読者であり、納得できる形で提出する必要がある。

さて、自分が今までに述べてきた方法は、自分とはあまりにもキャラが違う異性を書く方法としては限界がある。また、いたずらに先進性を表現しようとして、無理に異性の視点から描こうとすると、これもまたコケやすい。まずは、魅力的な脇役として丁寧にキャラクターを作っていくことからスタートするのが賢明かもしれない。そのうえで、自分とは性格の違うキャラクターを書くテクニックと併用できる水準まで持っていけたら、素晴らしい。

また、何かいい方法があったら、メモしておこうと思う。

 

以上。

 

*1:そして締め切りに間に合うように。

*2:誰もが被害者になりうるし、意図せずに加害者にだってなるから、みんなの問題だ。お互いに気をつけよう。

*3:黒人女性の医師が、いつも助手と間違えられて悔しい思いをしているという例がある。

*4:温厚な男性がふと見せた荒っぽい面とか。

*5:数か月ぶりに小説を書いたため少しばかり力が入りすぎて、余計なフランスの俗語を入れたのも失敗だった

*6:関係ないけど、おとぎ話で倒すべき悪しき父親は物理的暴力を振るうことが多いが、悪しき母親は言葉による呪いを駆使することが多い印象がある。このあたりはきちんと調べておきたい。

新年おめでとうございます、それから2020年の振り返り

■冬に彼女ができたよ

細かい経緯は省くが、この件を話したところ、旧友や後輩から祝福の言葉をいただいた。とてもうれしかった。同時に、もう小説を書く原動力がなくなったのでは、と半ば笑われた。それも、複数の人からだ。

当たらずとも遠からず、という気もする。読んでいただいた方にはすぐにわかっていただけると思うが、自分の小説の根底にあった要素の一つは、隣に誰かいてほしいという願いだった。どうしてうまくいかないのだろうという疎外感、あるいはずっと一人なのではないかという不安。

そうした願いが創作の原動力にあることは悪いことではない。孤独感は人間の最も深い感情の一つである。しかし、ここで自分が満足してしまったとしたら? 後輩は笑いながらこう言った。先輩はもう満たされてしまいましたね、と。

 

■小説を書くことについて、もう一度問う

どこかの記事で、高校生の頃に創作を始めたきっかけは、漠然と満たされない何かを埋めるためだと書いた。あるいは、過去に向き合うための手段だと考えていた。しかし、自分に向き合う方法は小説だけではない。小説という方法によって、直面したくないものを間接的に表現することで、自分自身と向き合う準備ができるのは確かだ。しかし、一番いいのは見たくないものをまっすぐに見ることである。言い換えるならば、自分にとって何が不快であり、何がつらかったかを、小説という安全な枠組みの中で表すのではなく直接口にしてしまうのが、小説という間接的な表現手段の次のステップなのではないか。こうしたごまかしは、思春期に女性に向かってかわいいと言えないばかりに、やたら難解な詩を書いてみせる態度と何が違うというのだろう。いじめを作中で表現するよりも、対人関係のトラブルは何が原因だったかを考えて、今後同様の事態を防ぐ自分なりのマニュアルを作ったほうが、有益なのではないか。

ところで、カウンセリングというものでも枠組みが大切だそうだ。決められた時間内に、決められた部屋で、決められたカウンセラーと対面することで安全な枠組みが作られるからこそ、クライアントは安心してに自分に向き合うことができる。どれほどつらい話をしても、あるいは自分をさらけ出したとしても、決まった時間が来ればそこで終わりになる。部屋を出れば日常が待っている。その安心感が重要である。自分は小説という安全な場の中で、自分の弱さを見つめようとしただけだったのかもしれない。

それとも、子どもが砂遊びというごっこ遊びの中で空想力を養い、社会性をはぐくんでいくみたいに、物語を語ることはいつか通り過ぎないといけない場所だったのだろうか。なぜ、物語の形でわざわざ表現するのか。つまるところ、自分の感情を表現することよりも、読者を喜ばせることをずっと強く意識しなければ、小説という形式を選び続ける必然性は、ない。

 

■文章を書くことについて、自己顕示欲についても問う

今年は、はてな匿名ダイアリーで記事を書くことにも挑戦した。内容は様々だが、例えばBLM運動と、銅像に対する破壊行為の合法性について自分なりに考えた記事があるが、これは170以上のブックマークがついた。昨年を通じてブックマークが1000を超えたのが1つ、500弱が1つ、300以上が3つほどあったように記憶している。悪くないせい成績だ。

大体、ほんの数千文字でレスポンスが帰ってくる匿名ダイアリーのほうが、数万文字書いてやっとコメントをもらえるかもしれない小説と比べれば、「効率」はいい。ありがたいことに、自分はよく説明が上手だと褒めてもらえるのだが、調べたことを説明したのが好評だったのも、それが理由かもしれない。こうしたことから、小説以外によって満たされる自己顕示欲についても再考を迫られた。プロの作家になる必要は、本当にあるのか。

しかし、この成績にもかかわらず、自分はブログのライターになろうとは思えなかった。数か月間、任意のテーマについて毎週必ず書くことを自分に課したのだが、これが思いのほか大変だったのからだ。好きなことについて好きなように数千文字(つまり原稿用紙数枚)書くだけのことなのに、テーマを選んだり調べごとをしたりするのが面倒だった。ましてや、関心のないことについても書かなければならないプロのライターはなおさらだ。

 

■今後

上に描いたような悲観的な考えは、自分の小説や文章を好きだと言ってくれる人の感情をないがしろにする、幾分失礼なものかもしれない。しかしながら、ゲンロンSF創作講座やはてな匿名ダイアリーで一定量の文章を出力し続けることによって、プロとして文章を書くことの難しさが、おぼろげながら理解できるようになってきた。これは大きな収穫だった。

文章だけで食べていくためには自分は何が足りていないのか。それを漠然とでも理解できた今、自分と同年代で作家やライターになった人間への根拠のない羨望は捨てることができた。まったく嫉妬しないわけではないが、彼ら/彼女らがどのような苦労を背負っているかを理解した以上、勝手な空想でうらやましがることはもはやない。今はすっかり落ち着いており、もしかしたら多少の議論が起こるかもしれない、男性のためのリアルな女性キャラの書き方的な覚書を(自分が以前褒められたので)共有しておこうかと思いもしたが、今は少し億劫である。

とりあえず、次にいつ小説という形で何かを伝えようとするかはわからない。将来、家庭を持ったとしたら小説に割ける時間はまた減るだろう。そのときにまた書くとすれば、今よりも我を離れ、読者を楽しませることにずっと注力していることだろう。

 

 

以上。

アーティゾン美術館に行ってきた。

アーティゾン美術館は以前はブリヂストン美術館と呼ばれており、学生時代にもよく通ったものだが、2015年5月からビルの建て替え工事を行っていたため、訪れたのはそれ以来になる。再開したのは今年の1月だが、ご存じの通りコロナ禍で美術館は軒並み休業しており、結局足を運べたのが土曜日のことだった。

僕は東京駅の八重洲側を降りることはめったにない。三菱一号館東京ステーションギャラリーは丸の内側にあるからだ。千葉在住の友人と落ち合うために何度か八重洲側の居酒屋を使ったが、アーティゾン美術館の近くまで歩いたのは本当に5年ぶりだ。しかし、周囲の建物はそれほど記憶とは異なっておらず、向かいにある画材屋もそのままだったため、学生時代に突然サークルの女子にこの近辺にいきなり呼び出されたこともあった、と想起した。呼び出された理由はまったくくだらないことで、恋愛沙汰とはまったく関係ないので、書いたところで面白くない。よって、省く。

さて、アーティゾン美術館で立ち入ることができるのは1階から6階までだ。入場料を支払うのが1階、ミュージアムショップが2階、受付が3階。あとはエレベータで6階まで上がり、エスカレータで5階を経て4階へ下りながら鑑賞する。上りながら鑑賞する東京都美術館とは逆である。

以下、鑑賞した順番に述べる。

 

ジャム・セッション 石橋財団コレクション×鴻池朋子 鴻池朋子 ちゅうがえり

この「ジャム・セッション」というのは、アーティゾン美術館の収蔵品と現代作家の作品を並べて共鳴させたり、収蔵品からインスパイアされた新作を展示したりするというコンセプトだそうだ。例えば今回は、クールベの作品と一緒に並んでいた。

で、鴻池朋子というひとの作品は、ずっと前に横浜で「根源的暴力」という展示をやっていたので見に行こうと思っていたのだが、結局行けなかったので、楽しみにしていた。

テーマには暴力という言葉が入っているけれども、血みどろでグロテスクだったりショッキングだったりというよりは、自分と他者が触れ合うときの必然的な痛み、自然と関わるときにどうしても神聖なものを侵犯してしまうときの震え、に近い。一見すると穏やかに見えるけれども、じっと見てみると、世界に関わることでできてしまうすり傷を感じられる。

そうした一見すると穏やかな雰囲気の中で、ハンセン病患者の隔離された島での生活にまつわる作品だとか、害獣として駆除されぶら下げられた獣の毛皮だとかを見ていくと、これらがただつらく悲しいだけではなく、別の感情もこもっていることが感じ取れる。例えばハンセン病患者の島で、散歩するための道を森を切り開くことで作った記録は、ただひたすら受動的に苦難に耐えたというよりも、いかに自分らしく生きるかを能動的に追求した営みのようにも見える。強制収容は間違いなく人権侵害だが、その不条理の中でただ屈しただけではない一面も見えてくる。他にも、世界各地の人々が手縫いで自分の記憶を綴った作品もあり、記憶を語るとはどういうことか、についても向き合うことになる、

いろいろ思うのだけれど、怖くはないが暴力的な物語/世界ってのは結構ある気がするし、逆に誰のことも傷つけない物語/世界もたぶんない。他者とのかかわりでは摩擦は必然で、痛みは伴うのだから、痛みをただなくすとだけいうのは何か違っている気がする。ただ、痛みからいつでも自由に逃げられるようになっている必要があるし、鋭い痛みを覚えるときであってもそれは人を委縮させるものではなく、成長を促すものであってほしい。

このあたりの話、幾分抽象的に書きすぎているかもしれない。

 

第 58 回ヴェネチア・ビエンナーレ国際美術展 日本館展示帰国展 Cosmo- Eggs| 宇宙の卵

文字通り、かつてイタリアで開催されていた美術展のインスタレーションを再現したものだ。専門を異にするアーティストが集い、異質なものとの共存をテーマにしている。

インスタレーションの中心には卵の黄身のようなソファがあり、そこからは透明で細い管がつながっている。その管を空気が伝わっており、自動演奏されるリコーダーに導かれている。だから、ソファに腰掛けるとあちこちから奇妙な音が漏れる。

周囲にははるかな昔に津波によって打ち上げられた石周囲や、打ち寄せる波際の白黒映像がループしており、その映像の裏手には架空の海洋文明の神話が書かれている。

聞こえてくるのはさざ波ではなく風による不協和音なのだが、それがどういうわけか心地よい。不可解なリコーダーの響きは自然界の音と同じような数理に支配されているからなのだろうか。説明によれば、この音響は安野太郎というひとのゾンビ音楽というものだそうで、ある一定のルールに従って自動的に音が奏でられる仕組みになっている。ゾンビというのは、人間ではない、人間の意志が介在していない、ということだろうか。

これで思い出したのは、以前駒場博物館に展示されていた、割り算の剰余の結果によって自動的に音が鳴る木でできたからくり仕掛けのことで、マリオメーカーかマインクラフトで二進法の計算をしてみせる装置に似ていたのだが、どうしても名前が思い出せない。個人的には、情緒的な音楽が厳密な数理によって支配されているのが何となく好きだ。

 

石橋財団コレクション選 特集コーナー展示 新収蔵作品特別展示:パウル・クレー

石橋財団コレクション選 特集コーナー展示 印象派の女性画家たち

ブリヂストン美術館時代から、ここの常設展にはお気に入りの作品がたくさんあったのだけれども、4階ではそれらの作品と5年ぶりに再会することができて、とても幸せな時間を過ごした。

僕はなぜかカイユボットの「ピアノを弾く若い男」が好きだった。理由はわからない。ただ、窓からカーテン越しにうっすらと見える外の景色をのぞいてみたいとずっと思っていた。そこから街路を見おろしたとき、どんな素敵な風景が広がっているだろうか、と空想していた覚えがある。横浜美術館のヌード展*1で、CHRISTOPHER RICHARD WYNNE NEVINSONの「A studio in Montparnasse」*2の前に立った時も、同じような気持ちになった。絵の中に入り込めるものなら、こうした窓のある作品がいい。

他にも、多くの新収蔵作品と出会うことができたので、非常に楽しめた。

クレーの作品と聞けば、枯木のような人物が何か抽象的な空間にいるイメージが浮かぶが、まるで色とりどりのタイルを思わせるものや、Tシャツのデザインのようなものもあり、そうしたイメージを覆す作品も多数あった。記憶とはいかに単純化してしまうものかを思い知らされた。そういうわけで、ある画家だけに着目した企画展は面白いものだ。ある種のブランド・イメージが確立されていく歴史的過程を見ることができるためだ。同様の理由で、メアリー・カサットの作品に新しく触れられたのもよかった。

 

その後

ミュージアムショップでかわいらしいペンを買い、カフェで目の前の工事を眺めながら*3生イチジクを乗せたトーストとアッサムティをいただいた。この手の先が丸くなっているペン、ときどき紐がほつれてきて、余計な方向にインクの跡を残していくことがあるのだけれども、書くときに疲れないのと、筆画の終端が丸くなるので優しい印象を与えるので好きだ。

で、帰ろうと思ったらうっかりと曲がる方向を間違えて銀座方面に歩いてしまった。ブリヂストン美術館とは出入り口の面している通りが違っていたから間違えたのだ。

*1:身体による表現と人間の弱さやはかなさに真摯に向き合ったここ数年で最高の企画展だった。

*2:横文字にしたのは別に気取っているのではなくて、検索しやすくするためだ。

*3:何を作っているのだろう?

ゲスト講師からいただいた感想、それから第5期生への更なるおせっかいなアドバイス                    

■ゲスト講師の皆様からいただいた感想

 最終選考会から一週間が過ぎ、長い日記を書いたり美術鑑賞に行ったりして、気分が幾分落ち着いてきた頃、ゲスト講師の方からいただいたコメントを読むことができた。評価が定まって冷静に読むことができる時期なので、ちょうどよかったように思う。この場を借りて、御礼申し上げます。

 さて、どれがどなたのコメントだったかについては伏せる。ただし、重要だと思ったのが次の指摘だ。

  • 構成はうまくまとまっている。
  • しかし、語り手が失ったのが本当に愛と友情だったかは疑問。
  • 気負い過ぎ。
  • ラストは気持ちよく広げるか、気持ち悪くたたむか、どちらかにすべき。

 以上のことを鑑みるに、構成そのものは悪くなかったようだ。つまり、必ずしもメタフィクションを禁じているわけではなく、技術的な水準で批判されたわけではない。しかしながら、そこに過剰に私小説的な煩悶を含めるべきではないようだ。入れてもいいとしたら、それは読者が容易に感情移入しやすいように配慮する必要がある。個人的には、できるだけわかりやすいようになるように努力はしたのだが、受け入れてはもらえなかった。

 一方で、合評会での評価は良かった。プロとして活躍した期間が長いほど評価が厳しくなるタイプの作品なのかもしれない。あるいは、プロになろうと苦悶している同世代にとってはより共感しやすい何かを盛り込むことには成功した、ということなのかもしれない。

 また、何かに夢中な人間を書くことそのものに失敗したわけではない。つまるところ、小説以外に憧れている若い人間の、感傷的な作品を開拓する余地がある可能性がある。

 それと、ラストに納得がいかない、という指摘は最終選考会とも共通していた。主人公が何も変化していない、というのだ。これも、私小説的な雰囲気を書くうえで失敗しがちなことだ。主人公が再び現実に立ち向かう力を取り戻すことをテーマにしたつもりだったが、感覚だけで書いてしまったので、実の単にところ最初に戻っただけだった。落ち込んでいた人間からすれば、落ち込みのないプラマイゼロに地点に戻ってくるだけでもありがたい話なのだが、読者からすればそこで終わってほしくない、ということなのだろう。

 

■そういうわけでの反省会、それから第5期生への更なるアドバイス

  • 梗概・小説を書く前に、三行ほどにあらすじをまとめておく。
    • そのミニ梗概は、単に起承転結を書くのではなく、主人公がどのような変化を経るかを明記する。
    • ミニ梗概を書くのが苦手な人は、梗概・小説を書いた後で、それを三行にまとめ、そこから梗概・実作を修正しよう。
    • 要するにこういう話なのだ、ということがわかれば推敲しやすい。余計な要素が見えてきて削りやすいし、説明不足の個所も補える。
      • 最終選考会の記事でも引用した、「根本的なところで、登場人物に対して、物語の中でどんな役割を担わせるか、を理解し、コントロールできていないと、長編を書くことなどおぼつかない」とはこういうことを指すと思われる。
      • つまるところ、小説の書き方の基本に常に立ち返ること。
    • 梗概を提出する前に、一度誰かに見てもらおう。
      • 合評会があるので、梗概→実作段階での修正はできるけれど、梗概の段階で点が入らないと、高得点は望めない。
      • 意味が分からない箇所がないかを特に重点的にチェック。
    • 私小説は難しい。
      • 創作活動の起点に個人の経験があることは否定しないけれども、関係のない第三者からすれば、赤の他人の人生にどうして感情移入しなければならないのか、となる。
      • 普遍性を得るように、適度に抽象化しよう。
      • それでも書きたいなら止めない。それが本人のテーマなのだろう。
      • ただし、主人公が何も変わりませんでした、みたいな話はダメ!
        • 私小説風であってもいいが、それは登場人物であってあなたではない!

 

■細かいところまで読んでいただけている!

 まだ完全に立ち直ったわけではなく、一つか二つ短篇の構想が浮かびはしたが、それを形にするまで至ってはない。しかしながら、それぞれの指摘事項を見ると、読んでいただけたのだな、という思いがして、厳しい感想をいただきはしたけれども、読者がいるという確かな喜びを、また求めてしまうかもしれない。

 もともと自分を維持するため、正気を保つために書いていたところから、ずいぶん遠くまで来てしまったようだ。そして、これからどうするかどうかは、焦らずに考えていく。

 

 比較的短いが、以上。

精神疾患と表現、飯山由貴とムーミン、シュティフター、起伏に乏しい書物の快楽

 

横浜トリエンナーレ2020雑感

 友人と四人でぞろぞろと、朝の十時から夕方の六時まで鑑賞した。それでも、映像作品が多かったので到底時間が足りなかった。

 横浜トリエンナーレは高校時代に、芸術鑑賞会と称する学校の企画で出かけた記憶がある。確か、直腸を模したバー*1があったから、第2回のはずだ。皆勤賞だと思っていたのだが、どうやら記憶違いだったようだ。

 こうして長いこと通っていると、何となくだが、作者の意図が全く理解できない、混沌をそのまま具象化したように見える作品が減って、現代社会にコミットしたものの割合が増えた気がする。言い換えれば言語化しやすいのである。そう思う理由の一つは、単純に作品の前に簡潔な解説がつくようになったからだろうし、もう一つの理由は、自分が幾分鑑賞するときのポイントの見分けがつくようになったからなのだろう。まったくわけのわからないものを見せられて唖然とする経験が好きな自分としては幾分寂しい気もするが、それなら解説を読まなければ済む話である。それに、解説が正しいという保証だってまったくない。

 そんな中で、気になったのは飯山由貴の映像作品だった。時間も限られているのですべてを見たわけではないが、あらすじとしては次のようなものだ。精神疾患を持った家族の「自分は妖精であり、迫害を受けている」という妄想*2に耳を傾け、そのイメージを現実のものとしようとする。そして、家族みんなでムーミンの着ぐるみを身にまとい、近くの観音様にお参りをする。

 なんで面白いと思ったのかを整理すると、一つには親戚とか知りあいとかの日常のホームビデオを見るような感覚を得られたからだ。精神疾患は深刻な問題だし、当事者はつらいのは間違いないのだろうが、患者の空想を現実のものとしようと家族が一緒に行動しているところには、患者に寄り添うというか、独特の世界観につきあおうと努力していて、第三者の勝手な感覚だが、どこか心温まるところがある。

 もう一つ、穏やかな家庭の一幕的な感じがした理由は、空想を現実のものにする難しさだ。つまり、精神疾患を抱える姉妹の空想を現実にする試みは優しいものだが、当の姉妹はそれに対してどれくらいのリアリティというかありがたみを感じているのだろうか。クリスマスに、思っていたのと違うぬいぐるみをもらってしまったような、ありがたいのだけれど、親は自分の好きなアニメのことを何もわかっていなかったんだな、みたいな気分にはならなかったのだろうか。あるいは、自分がいざ欲しいものを手に入れた時の非現実感はなかったのだろうか。

 さらには、この試みが極めて私的なものであり、他人の夢を聞いているような、とはいえそこまで突き放して耳を傾けることができない、浮遊感も独特の魅力の一つなのだろう*3。また、そばには精神病院のアーカイブに関しての作品・ドキュメンタリーもあり、面白かった。

 言語化してみれば、大体こういうことになる。とはいえ、言語化してしまうことで分かったつもりになる、それはすごく危険なことだと思う。以前、ギュスターヴ・モロー展でそばにいた二人連れのお客さんが、「結局男性の描く女性像は、聖母と娼婦に集約される」と漏らしていたのだが、ここで話が終わってしまっていた。自分としては、それはすごくもったいないと感じたのだ。なぜなら、ここから思索をもっと深められるはずだからだ。

 一般論としては、ではどういう過程を経て男性心理のなかで、女性像が聖母と娼婦に分裂*4するのか。あるいは、同じ男性でも聖母像と娼婦像が全然違うのはなぜか。生い立ちを比べてみると面白いのではないか。聖母と娼婦の入り混じったような、エドヴァルド・ムンクの作品に漂う不安と被害妄想的な雰囲気*5はどこから来るのか。藤田嗣治の人工的な楽園の聖母は、本当に安らぎを与えてくれるのか。では女性の男性像はどうなるのか、と疑問は尽きないのだ。

 そういうわけで、頭だけで見ることの危うさというか、過度に言語化・抽象化することで作品から離れて行ってしまうリスクは存在しているはずだ。なので、作品に向き合う言語以前の経験と、それを精緻化するための言語化という二つの極を行ったり来たりするのが楽しいのだろう。

 念のため述べておくと、トリエンナーレから変なものがなくなったわけではない。たとえば、海藻やプランクトン、エビを閉じ込めた水槽では物質が循環するので、日光さえ与えればエビは生き続けられるのに、なぜか繁殖しようとしないという事実がある。それに対して、どうすればエビがセクシーな気持ちになって繁殖してくれるか、というテーマの作品群がある。かなりふざけているが、言語化するとすれば、私たちにとってのセクシーさとは何か、他の生き物に成り代わって何かを感じることはできるか*6、あらゆる欲望の起源はどこにあるのか、みたいな話なんだろうけれど、まあ、とにかくへんてこりんだ。

 あと、今回は旧レストランの台所や、トイレを作品の展示場所にした個所もあり、それについて語りたいこともあるが、まずはこの辺で。

 

シュティフター「晩夏」

 話は変わって、最近読んだ本について話そう。十九世紀オーストリアの物語だ。

 

晩夏 上 (ちくま文庫)

晩夏 上 (ちくま文庫)

 

 

 ここ最近は、SFもメタフィクションも読みたくない。もちろん、最終選考会で酷評されたからである。素直に悪いところを直せば済む話なのだが、自分の救済のために書いた作品であり、思い入れも深い。実際のところ、自分の感じていたことをほぼそのまま書いたことですっきりしたし、過去に書いた作品そのものを手放すことは容易にできたのだが、このままでは決してプロになれまいだのなんだのといろいろと言われたので、感情的にはまだ気に食わないのである*7

 そういうわけで、十年ほど積んでいた本に手を出した。大学時代に友人が、毎年夏の終わりに読み終えようとするが挫折する、という理由で譲ってくれたものだ。鷹揚な友人で、読み終えた本をよくくれた。しかし、僕もどういうわけか手に取らずに置いていた。当時は、読みたい本リストが常に百冊以上ある状態であり*8、自分の欲求を満たすことが先であるように思われたからだ。しかし、この数日は図書館からも本がなかなか届かないことだし、ちょうどいい、と考えたのである。

 「晩夏」のあらすじは極めて簡単だ。学者を志す青年が、山中の薔薇の美しい屋敷の主に雨宿りを乞う。やがてその主と親しくなり、彼の深い教養から薫陶を受け、毎年のようにそこで夏を過ごす。最後には彼の美しい養女と結ばれる。たったこれだけの話を文庫の上下巻、千ページ弱で述べている。

 そういうわけだから、ネタバレをされて読む楽しみが失われる類の本ではなく、語りにぼんやりと浸る幸福な時間を楽しむべき種類の書物である。とはいえ、この書物ははっきり言って冗漫であり、退屈である。登場人物に品位があり、読んでいて気持ちはいいのだが、「もしもあなたが心からこう思うなら、わたしもそうしましょう」「ぜひ、よろしくお願いします、あなたのご好意をうれしく思います」式のやりとりばかりで、入り組んだ仮定法は礼儀正しいがくどい。それと、成功体験ばかり並んでいるので単調である。挫折がない。葛藤もほとんどない。悪の存在が希薄なのだ。あくどい読者の自分としては、主人公が専門を決めずにあらゆる学問を学ぼうとした結果、結局何者にもなれずに終わる、みたいなことを予期していたのだが、まったくそんなことはなかった。

 自然科学や芸術への傾倒を丁寧に描く様子には、作者のこういう教育を若者に授けたいという願望が非常に強く表れており、良くも悪くも啓蒙的である。もちろん、明晰な文体で強い感情を描くのだけが文学だとは思わないし、むしろ好きな方向性だが、さすがの僕も幾分やり過ぎだと感じる。

 どのくらいくどいかというと、まず語り手の生い立ちに始まり、青年が薔薇の屋敷にたどり着いてからは、屋敷の主人の口を借りて、作者にとっての理想の農村経営手法の説明が延々と得意げに続けられる。そのパートを読むのに一日半かかった。まだ読んでいないのだが、ユイスマンスなんかが「さかしま」でお気に入りを語るときはこんな感じだろうか。コレクションのすばらしさを語るのをやめない話し手は、一般教養が重んじられた時代ならもっと読まれたかもしれないが、読み通せる人は今となっては少ないことと思う。正直、最初の数十ページはプルーストよりもしんどかった。

 あと、芸術による心情変化よりも美しいものそのものの描写が多い。嫌いではないが、SF創作講座で言われたのは、音楽をはじめとした芸術の美を地の文で表現するのではなく、周囲の人々の反応で示せ、ということであった。つまるところ、これはかなり自己満足的な部分を含んだ小説なのでは、という気にもさせられた。

 では、どうして僕がこんな小説をわざわざ最後まで読み通したのか。一つには先ほども述べたように、SFもメタフィクションもしばらくは読みたくない、とすねているからだ。それと、僕自身の自己陶酔的な傾向が、シュティフターの幾分説明的に過ぎる文体に共感しているのかもしれない。だが、けっしてそれだけではない。はっきり言って退屈な箇所がほとんどであるが、僕は退屈さに癒されたところがあるのだ。考えてみれば、なぜ退屈に感じてしまうのかといえば、それは作者が個人的な思いを強く出し過ぎているからである。これには弊害もあるが、そこが作者らしさであるともいえる。つまるところ、私的で退屈な箇所をすべて切り捨てれば優れた芸術になるわけでもないだろう。もしも、そうした枝葉や余計な個所をすべて切り捨ててしまえば、その結果として出てくるのは類似した読後感ばかりではないか。微細な色合い、風味を失い、ただひたすらに強い感情の連なりが残ってしまわないか。つまるところ、適度な作者の自分語りは作者の人柄を明かし、他ならぬ作者が書いたという署名となるように思われる。自分とは異なる人間の意識に寄り添い、ゆったりと歩むこと。これは、上質なエッセイを読んでいるときの喜びに極めて近い。あるいは、現代美術で作者の私的背景が作品に織り込まれていると知った時の高揚にも似ている。

 それに、疲れている身としては、その起伏の乏しさに救われたところが多い。また、映画でもそうだが、適度の退屈さ・不可解さ・難解さのある作品のほうが、頭と心に残る。退屈さによって実現する美があるからだ。そして、語り手の意図を能動的に考えなければならない作品のほうが、作者により近づけたように感じる。何度も思い出し、あのシーンにはこういう意図があったのではないかと思い至る。それを確かめるために、またページをめくるわけである。

 難しいことは言うまい。この作品をたまたま手に取って癒された。それで十分だ。上に書いた、エンタメ的な文章への反発のような個所は、捨ててしまおう。

 

■今はそういう気分だ

 自分自身のことを訴えて、小説にしたいという熱意は穏やかになっている。しかし、ならば誰の物語を書けばいいのかは、まだ見つけられていない。自分が自己表現をするための手段が、本当に商業小説なのか、厳しく疑ってかかる必要があるだろう。現に、今はこうして美術展の感想や、読書についての随想を、あてもなく綴っているが、これもまた楽しい。

 

 以上。

*1:Bar Rectumという作品。

*2:正確に記憶していないので誤解があったら申し訳ない……。

*3:断片的にしか見ていないので、こういう感想を述べるのはおこがましい気もする。もう一遍会場に足を運ぼうかな……。

*4:メラニー・クラインの乳房の分裂みたいだな。

*5:その不安がムンクの魅力ではある。

*6:コウモリであることはどういうことか。

*7:素直じゃなくてすみません。

*8:なんだかんだで今も結構あるかも……。

第4回ゲンロンSF新人賞選考会結果、それから第5期生へのおせっかいなアドバイス

 徹夜だった皆さんはそろそろお目覚めだろうか。

 自分も余韻が抜けたのが、ついさっきのことだ。とても楽しく、かつしんどく、それこそ怒涛のような一年半だった*1*2

 ひとまず、気持ちの整理も兼ねて、昨日の出来事についてざっと書いた。

 そして、5期生へのアドバイスも一番下にまとめておいた

 

 以下、選考結果。

 

■まずは幸福なことである

 最終選考に残りはしたが、評価はまったく芳しくなかった。他の作品がほぼ団子であったにもかかわらず、自分だけ最上位とはおおよそ倍以上も差が開き、厳しいコメントが相次いだ。正直、その日は小説を書くという趣味から撤退したくなったし、何だったら読書も一切やめたくなった。さらには創作のために新しい知識を頭に入れることさえ厭わしく思われた。絵画や音楽の鑑賞でさえ。つまるところ、自分の生活を支えている趣味の9割に対して無意味さ空疎さを覚えた。最終選考などに残らなければ、こんな思いなどしなくて済んだのである。

 しかしながら、よく考えてみると、これほど多くの読者から、プラスとマイナス両方の評価をいただいた例は稀有で、それだけでも、1年間受講した意義は大いにあった。講座受講生・卒業生、ダールグレンラジオ関係者、それからキャリアの長い作家・編集者との受け止め方の違いを知れたのは大収穫だ。厳しい意見も直視することで、自分にとって文章を書くとはどういうことか、ひいては自分の人生で重んじたい価値とは何かについての思索を、深めることができるだろう。

 

■気分的なこと

 講評中、語り手がひたすらにダメ男と呼ばれ続けるので、語り手と属性の多くを共有する自分としては胃がきりきりしたし、全身がほてり、時には屈辱感も覚えた。とはいえ、冷静になって考えれば、語り手はあくまでも作者のカリカチュアでしかなく、弱い部分や愚かな部分を拡大して見せたのである。ダメ男と受け止められたのは、むしろ作戦成功だ。それに、主人公と作者は混同されてはならない。これは、他の人の作品を語るときにも厳重に守る必要のあることだ。

 このままでは同人作家にしかなれない、というプロ作家からのコメントもまた厳粛に受け止めたい。と同時に、自分は本当にプロになりたいのか、ということも熟考する必要がある。自分は、プロになりたいかと尋ねられたときにうなずいたので、ここまで厳しいコメントをいただいたと理解している。だから、これは屈辱を覚える筋合いのものではなく、むしろ一人の見習いに対して、同人とは一線を画する*3プロから敬意率直さをもって扱ってもらった、と判断したい。

 プロというのは、常に一定のクオリティを出さなければならず、楽しいばかりではやっていけない。アマチュアは基本的に楽しさのみでもやっていけるが、プロはお金をもらっている以上そうもいかない。しかも、絶対に逃げられない。働いてお金をいただくことはそれだけで大変なことだ。

 そういう意味で、何よりも楽しんでやりたいのだということを優先するのだったら、プロ以外の道も真剣に検討するのも、けっして恥ずかしいことではないと思う。小説を書くことのみならず、こうして自分の感じていることを素直に書くことにも、同じ程度の喜びを感じている人間が、書きたいことを書きたいように書けないこともあるプロの小説家になって、果たして幸福かどうか、そこはじっくり考えないといけない。

 そういう意味では、プロとして生きることのつらさを教えていただけたのは、とても親切なことであった。帰りのタクシーのなかでひどい車酔いになりつつ、幾分の怒りや嫌悪、屈辱感や嫉妬を全く感じなかったかといえば大嘘だし、何だったら二度と小説など書くまいという思いも浮かんできて、眠りに落ちるまで相当時間がかかったのだが、自分の穏やかな生活を引き換えにしてまでもプロになりたいのか、どこまで自己を芸術に差し出せるか、そこを問えというのは、プロになることをただの憧れではなく、生活の一部、現実のものとして考えてくれ、という大先輩からの励ましであり、叱咤激励であり、愛情であり、選択を迫る声と受け止めた。

 長い人生である。もっと年齢を重ねてプロになる運命かもしれないし、こうやって同期を励ますことが自分の役割だったのかもしれない。創作するうちに小説の読み方が少しだけ精緻になったこともまた、財産だ。また、創作する楽しみの中の自己顕示欲についても、きっちりと片をつけたい。SF雑誌に自分の名前が載ったらすごくうれしいが、読書という趣味を共有し、作品についてああだこうだ話す時間もまた、自分にとってきっと同じくらい尊いことだ。

 やれやれ。ここまで書いてきたら、気分もだいぶ晴れてきた。

 

■個人的にいただいたコメントをまとめよう

 名前は伏せる。正確さを期するためにyoutubeで聞き直してもいいのだが、厳しいコメントに対して、もっと指摘してください、勉強になります、とビクビクしている自分の姿は見たくないので、とんでもない悪筆のメモ用紙から書き起こす。不正確だと思うし、つながりをよくするために、順序を入れ替えたりパラフレーズしたりしている個所もあるので、正確な文脈を知りたい方はぜひぜひ動画をご覧ください。面白いので。

  • メタフィクション的に、ダメな感じの男の子が失恋の話をしつつ、作中作でアラビアンナイト風のものを語り、さらに作中作があって少しずつ相互に関係していく。
  • 共感できない主人公ものだ。
  • セールスポイントはどこか。
  • 自覚的に作っているのだろうか。たとえば、スネ夫がそのまま大人になったような登場人物が出てくる。おそらくわざとやっているのだろうが、この作者はヤバいやつなんじゃないか、大丈夫なんだろうか、と不安になる。
  • その点に関しての違和感はなかった。私は、主人公はこういう人なのだな、と素直に受け止めた。
  • 自分の考えの中で自己完結している。ダメさ加減は身近でリアル。今回の芥川賞、遠野遥「破局」の登場人物と比べると、極端さは少ない。創作講座に出席している男性の多くが身につまされることが多いだろうし、面白い。もうひとつ面白いのはメイキング的なところだ。円城塔「エピローグ」よりも「プロローグ」のほうが面白いのと同じで、読者のするであろうツッコミをすべて言っていくタイプの作品*4。一応SFとしては、こういうのもアリだと思う。
  • 物語を執筆するなかで現実が影響を受けていくが、現実世界サイドの出来事をもう少しコミカルにしてもいいかもしれない。軌道エレベータで急にSF的になったね。
  • 軌道エレベータを出しただけでSFを名乗るのは甘いのではないか。
  • 私は、現実では何も変わっていないように思われた。私は、こういう作者の葛藤は人様にお見せするべきものではない、と考える*5。言い訳が書かれていれば、読者としては腹が立つからだ。楽をしているように受け止められる。
  • こういうことをやるのなら、リアリティーショー的な面白さが必要なのでは。
  • もう一つやめたほうがいいのは、テッド・チャンへの言及。プロでも似たような話題作が出たらその作品は1、2年ほど寝かせる。わざわざぶつける必要はない。度胸があるともいえるが、そこがダメなところだ*6。それと、作中作の軌道エレベータや、ムスリムキリスト教徒が分かれて住んでいる設定が、私には噛み合っていないと感じられた。
  • 物語がエンドマークを迎えた後も、主人公は何一つ変わっていない。立ち上がるか、もっと駄目になるか、このまま延々とづくことを予感させるか、そこがはっきりしない。作者は書き上げて自己満足してしまったのではないか。
  • 加えて、私はですます調にも反対だ。なぜなら、何も考えずに書けて楽だからである。考えないことを習慣にしてしまうのはとても危険だ。ダラダラした喋りで続けられてしまう。行きつく先としては、同人誌しか書けない人間だ。ですます調は、うまく使えば神の視点として使えるし、あるいは残酷なことが起きていても突き放したような視点を貫けるだろうが、強い依存性がある。私はやめるべきだと考える*7
  • 編集、作者としては面白く読めるが、一般の読者が楽しんで読めるかどうかが疑わしい。依存する対象を小説に限らず、もっと別のものとしたほうが、読者にとって間口が広がるのではないか。点が辛いのはそれが理由。
  • 自分としては、よくあるよくある、と感じることができた。これを書いてしまう気持ちもよくわかる。作者は気づいていないのだが、ブラック・ライブズ・マターやフェミニズムの時代、マジョリティである俺はどうやって小説を書けばいいんだよ、的なのがテーマなのだと思う。だからこそ、幾分唐突に黒人差別の問題が出てくる。それに対して語り手がダメな人というのが重なってくる。とはいえ、自己分析がまだ甘いのではないか。
  • 自覚的にやろうとしているのはわかる。とはいえ、先ほどですます調が甘いと指摘されたのもわかる。河出文庫版の「デカメロン」のですます調はもっとデコラティブだ。なので、やるならあそこまで突き詰めるべきだ。逆に、もっと簡素にするか。
  • 身内受け感。

 

■小浜さん&井出さんのトーク

  • 根本的なところで、登場人物に対して、物語の中でどんな役割を担わせるか、を理解し、コントロールできていないと、長編を書くことなどおぼつかない
  • このお話が存在している外の世界のリアリティはどうなっているのか。言い換えると、作品の中だけではなく、このお話が存在している世界はどうなっているのか、のリアリティのレベルが疑問だ。
  • 無理を承知で長くして、結果的に人物を増やしすぎるパターンが多い。
  • 息切れも多い。
  • (僕の作品は)劇中劇から枠物語への影響が薄い。矢印が一方方向で対等ではない、RPGをプレイしているような感じだ。出来事からのフィードバックにも乏しい。もっと絡みを強くしてほしい。
  • 瑛理ちゃんのパートはうまく書けていた。
  • 文芸サークルあるあるもよかった。
  • しかしこれ、悟りに達しない「ライ麦畑で捕まえて」だ。何らかの形で救済がないと
  • どうして「デカメロン」にしたのか。
  • ロバート・マッキー「ダイアローグ」はいいぞ。
  • 「ひらめき☆マンガ教室」の講義録もいいぞ。
  • シド・フィールドもいいぞ。
  • 二次創作ってのは、キャラを端的に説明しなくてもいい。お前らもう知ってるだろ、的な感じ。

 

■総評、作品選考の後で

  • 今回のレベルは高かった。ハヤカワSFコンテストと比べても遜色がなく、ここまで来たのか、と思った。7人それぞれに力がある
  • 今後が楽しみである。
  • 120枚という枚数にエンドマークを打つだけでも努力、才能の証である。これからも一緒に頑張っていきましょう!*8
  • 毎月提出者が多く、うれしい悲鳴だった。第5期を引き受けることも、正直少し考えさせ欲しい、とまで思った。作家は厳しい世界に生きているが、10年前にデビューした作家で芥川賞直木賞を取った人がいる。これからの10年を楽しみにしている。
  • 毎期、書く力は強くなっている。本当に大事だ。創作することはひどく孤独なことだが、スクールに仲間がいることで、続けるモチベーションになる。それが、こういう講座の意義である。

 

■その他、自分が心に残った言葉

  • 読者を侮ってはいけない。同時に、読者がご存じでない量もまた、甘く見てはいけない。そのあたりの配慮の匙加減が難しい。どうしてこんなことまで書かなければいけないのか、と思ってしまうほど、書かなければならないケースもある。「モナリザ」はみんな知っている。では「グランド・オダリスク」はどうだろうか?
  • 同じ理屈で、異文化や神話も危険。どこまで読者に理解していただけるかどうか。自分をどこまで抑えてサービスができるだろうか。
  • 文化盗用の問題は難しい。責任の取り方の一つとして、現地に行ったという例があるが、現地の人が読むかもしれない、そういう信念をもって書いて欲しい。
  • (帰り際に大森氏から)創元SF短篇賞に出していた頃と比べると、一皮むけたように思う
  • (それと、現地で多くの人から)自分のコメントが励みになった。ありがとう。そうおっしゃっていただけた。

 

■もう1つだけ……

 今回、ゲスト作家からもコメントをいただいたそうなので、それが届くのを楽しみにしている。

 

■あと、最後に第5期生にちょっとしたアドバイス

 自分の経験から、第5期生がどうやったら講座をより楽しめるかについて書く。

  • 梗概は毎回出そう。
  • 選ばれなくても実作は毎回出そう。
    • 書かないと伸びない。書いてもいない作品について空想しても、机上の空論になる。
    • 運が良ければコメントがもらえるかもしれない。
    • 返事がないのもまた返事。
    • 合評会でいいところ、ダメなところをどんどん指摘してもらおう。
    • 合評会をやる人がいなかったら、自分で作ってしまおう。
    • 講座のコメントは概して厳しい。心が折れないように、褒めてくれる人も見つけよう。
    • でも、ダメなところは素直に直そう。
    • 仲良しなのはいいこと。でも、だからこそよくないところは素直に言おう。
    • もちろん、いいところはいっぱい褒めよう。
  • 他の人の梗概、実作は読んで講座に出席しよう。
    • 読んでいない作品の講評を聞いても、効果は薄い。
    • というか、単純に手持ち無沙汰になってつまらない。
    • お金を払ったんだから講座を隅から隅までしゃぶりつくそう。
  • できたら、他の人の作品の感想もアウトプットしよう
    • 漫然とした感覚ではなく、言語化すること。
    • 単純な好き嫌いでも、たくさん書くと立派な体系になる。
    • 結果、自分は何が書きたいか、どんな作品が書きたいかがわかってくる。
    • また、自分の創作姿勢、小説に対する態度も明らかになる。
    • 他の人の短所が見えるようになると、自分も同じ誤りに陥っていることに気づく。
    • ついでに、全作品の感想を書くと、他の人から感謝されてうれしいぞ。
    • 負けたとしても、負けるべくして負けたのだということがわかり、負けた悔しさからの回復が早くなる
    • 自分がうまいと思った人が受賞すると、素直に祝福できる。
  • 講座でコメントを頂いたら素直に受け止めよう。
    • できるだけメモをいっぱい取ろう。
    • ノートはいい思い出になる。
    • 聞き取れなかったら、動画を見直してもいい。
    • そして、それもアウトプットしてまとめよう。
    • 定期的に振り返ろう。
    • 自分は何ができるようになったかを確認して、自分を励まそう。
  • 厳しいコメントをもらっても、落ち込まなくていい。
    • たくさんの人からコメントをもらえれば貰えるほど、大まかな方向性がわかる。
    • コメントはどうしても好みが入ってしまう。でも、たくさんの人が同じことを言っていたら、それはかなり精度の高いコメントだ。
    • amazonのレビューと同じ。
      • 否定的なコメントも参考になる。
      • 「難しすぎました」というコメントからは学術っぽい本だってわかるし、賛否両論ある文学作品は、作者が新しいことにチャレンジしているんだってわかる。
    • 自分がどんなことができるか、毎回少しずつ違った試みをしよう。
      • 文体を変える、扱うテーマを変える、書いたことのないキャラクターを出すなど。
      • たとえば、僕はアクションが下手だということがよくわかった。
    • 上のことをやっていると、読書する時間が減るけれども、隙間時間で頑張ろう。
      • もちろん、読んだ本の感想もアウトプットしよう。
      • 好きな作品リストを使って、自己理解を深めよう。
    • 最後に、規則正しい生活を送ろう。
      • 朝まで飲むスクールの受講生の言うことじゃないかもしれないが。
      • 結構、無職率が高い。無職はまったく悪いことではないが*9昼夜逆転が続くと健康を損なう危険がある。
        • 軽い運動、お散歩がおすすめ。
        • 朝は日光を浴びよう!
      • 正直、小説の執筆はすごくしんどい。
      • くれぐれも心身の健康を損なわないように!
        • そういう意味でも外に出ること。
        • 場合によっては友達や受講生に愚痴ろう。
      • 締め切り直前になってドタバタするより、毎日原稿用紙数枚ずつ書くのが吉。
      • 書いたら寝かせてからきちんと読みなおそう。
        • そのためにも早めに第一稿を仕上げよう。
      • 誤字脱字がひどいと怒られるぞ!

 

 思いのほか長くなってしまった。だが、上記のことを実践することで、自分は一度も梗概が選ばれなかったにもかかわらず、最終選考に残り、プロからの視線で直し方を指摘していただけた。もちろん、上位7位の中では最下位であるが、最大限の努力をした結果であり、嫉妬を通り抜けた先には、誇りの気持ちが残っている。

 

 それと、ダールグレンラジオ賞、改めてありがとうございました。

 一年間、お疲れ様でした。

 

 以上。

*1:こういう表現を使うと編集者から「凡庸」の赤字を入れられちゃうんだろうな。

*2:最終選考会を聞いていないとわからないネタです

*3:下にも書くけれど、同人は決して作家の下の存在ではない。別の選択だ。ただ、作家は同人作家以上に厳しい視線にはさらされてしまうのは事実だろう。

*4:実はこの作品に憧れてこういうスタイルを取ったのだが、別の方に怒られました。

*5:別のタイプのメタフィクションだったらOKだったのだろうか?

*6:プロによる作品を出すタイミングについての貴重なアドバイス! 感謝です!

*7:ですます調が好評だった回もあるのだけれど、使いどころが難しいようだ。

*8:この一言で救われました。

*9:うつで休職した友人が、大分元気になった時に、自分を見つめなおしていた。で、給与が高くなくても、友人と遊ぶ時間がゼロになるのは嫌だ、とその人は言っていて、今は幸せそうにやっている。