最終課題:ゲンロンSF新人賞梗概感想、その4

■近況

 昨日、気分が晴れなかったのと軽度の頭痛*1がしていたので、気晴らしに近所の公園で読書をしようとした。ところが、いざ公園についてページを開こうとしたら本を忘れていたことに気づいた。仕方がないので、その辺を二時間ほどうろうろして帰った。気分が晴れた。できるだけ、人の密集しているところを避けていると、歩いたことのないコースをたどることになり、新鮮だった。家の近所は山を切り開いたところなので坂道が多く、時折急な階段や思いがけない眺望に出会うことがあり、そこが楽しい。

 それと、最近妹がテレワークで部屋に防音壁を設置するために部屋を整理したためだろうか、おおよそ三十年ほど前の子供向けの図鑑が出てきた。小さいころに夢中になって読んだものなのでとても懐かしい。今になってページをめくると、当時は未解決だった問題が今になって答えが得られているものも多々あり、学問の進歩を感じさせる。例えば、冥王星が太陽系唯一の未探査の惑星*2であることだとか、太陽から出てくるニュートリノが太陽の活動量から予測される数値と比較して少なすぎるので*3数百万年後には氷河期になるのではないのかとか、そうしたことだ。

 似たようなことで、父方の祖父母の家にある戦前の天文学や化学の教科書を見るのも楽しい。探査機などはまだ夢の話であり、太陽がこれから巨大化するのか縮むのかさえ分かっていなかったそうである。科学用語も今とは異なり、アルゴンやキセノンの元素記号AXであったりする*4*5。他にも、族の名前が違うし、今の長周期表ではなく、いわゆる短周期表になっている、堆積岩も水成岩と呼ばれており、政治的な話になると、地学便覧に朝鮮半島や台湾の最高峰や河川の長さが掲載されているのである。

 父親の使っていた地図を見ると、ソ連が健在であったり、サウジアラビアとイエメンの間の国境線が無かったりと、眺めているだけで楽しい。歴史を間近に見ている想いがする。

 話を戻すと、学問の進歩というのは遅いようで着実にあるということだ。最近、新書で江戸時代に関する本を読んでいたところ、いわゆる慶安のお触書は典拠が怪しく、今の教科書には載せられていないそうだし、塾講師をしている友人によれば、僕らの頃は京浜工業地帯が生産額一位だったのが、今では中京工業地帯が一位だそうである。とっくに一世代が経過しているのであり、時折知識のアップデートをしないと、確実に発想の古い人間になっていくと、実感させられた*6

 

以下、本題。

 

■安斉 樹「サノさんとウノちゃん」

 かわいい。この安直にして親しみが持てるネーミングセンス。この人は、こういう適度に力の抜けた話を書いたら輝くんじゃないだろうか。

 左脳=論理=男性、右脳=感性=女性という等号が、現代においてはほぼ確実に突っ込まれてしまうのだろうけども、突っ込んだら野暮になってしまうような雰囲気で書いたらなんとかなる、かもしれない*7

 右脳と左脳がどこまで分かれているものか、あるいは分離脳の研究だとか、いろいろとハードな理屈を持ってくることも可能ではあるけれど、どちらかといえば議論の精密さよりも、自分の中にいる別の二人によるドタバタを中心にして、そういう理屈はおまけ、くらいのウエイトでちょうどいい。それよりは、論理と感性の妥協点をどうやって見出すか、というプロセスを具体的に練るといい気がする。

 

■藤田 青「Time Flies

 いい話。ただし、芸を小説で表現するのは、音楽を表現しようとするよりも、かなりハードルが上がる気がする。しかも、語りによる芸である落語だ。小説とは別の言語システムをどのように描写するか、きっと難易度はすごく高い。でも、師匠と弟子をはじめとする周囲の人々の関係から表現していけば、素敵な作品になると思う。

 ただ、この話のどこがSFなのだろう? ただ、師匠の芸によって幻想世界が出現する、というのを無理にやるよりは、今みたいにSF度が低いほうがいい話になる気もする。難しい。

 

■松山 徳子「手紙」

 きれいにまとまっている。非常にいい梗概。起承転結がしっかりしており、一読しただけでどんな話にしたいかがよくわかり、設定もするりと飲み込める。

 内容に関してもいい。人工的な死後の世界を作ったが、それすら永遠ではなかった。ならば、最初からそこに赴かなくてもかまわないのではないか、という問いかけである。

 もちろん、欠点として、結局この技術ができる前に戻っただけじゃん、というのもあるけれども、それはこういう傾向の作品を作るうえでは避けられないので、気にしなくていい。それよりは、誰かを失うことの痛みを改めて思い出した人々が、生きていることの不思議さやかけがえのなさに改めて直面し、動揺し、苦痛を覚え、互いをいたわりあう情景を、表現するのが主眼のはずだ。

 

■東京ニトロ「僕らの時代」

 いつものように勢いがある。たぶんプロットはこれで問題がない。

 ただ、一読しただけではストーリーは追えたのだが、根幹の設定がよくわからなかった。タイムトラベルの原理は何か、どこからどこまでがフィクションの世界なのか、そもそもディープフェイクによってどのように世界が崩壊するのか、世界の終わりを画策する学生の行動原理は何か、そこが読み取れなかった。

 ただ、作者の中ではたぶん明確なイメージが存在するので、実作についてはあまり心配していない。

 

■揚羽はな「赤い空の下にある希望」

 人間の善意を信じているタイプの作者なので、こういう方向でいいと思う。

 不謹慎かどうかははっきり言ってわからない。どんな表現であれテーマであれ、どれほど誠実に下調べをしたとしても、誰も絶対に不快にさせない表現ってのはない。それが社会的に容認されるように最善を尽くすのみだが、伝わらないときは伝わらない。

 ただ、これは個人の考えでしかないのだが、一度これをテーマに書くと決めたのなら、まずは完成させてほしい。たぶんそういう覚悟で梗概を提出したのだろうと、僕は受け止めたからだ*8

 それと、タイトルが若干すっきりしないというかまどろっこしい気がする。

 

■遠野よあけ「木島館事件/恩寵事件」

 あの「カンベイ未来事件」が帰ってきた!

 か、どうかはさておいて。京アニ放火事件から着想を得た作品から、設定を流用していて、だからかなりの覚悟がある作品なのだな、と予感させる。設定を活かしきれていなかった「火子演算計算機」がどのような形で機能し、現実を改変してくのか、そこを見てみたい。人類が正義を手放す過程は、今度は描かれるのだろうか。

 さらには、「何も書き出せずに朝になってしまう」という現代文学にありがちな後ろ向きの結末、これを納得できるようなラストとして表現できるか、そこも気になるところだ。

 

 以上。全作品梗概感想終了。

*1:ゲームのやりすぎだったりして。

*2:もう惑星ではなくなったということと、さらには冥王星軌道周辺には似たようなのがごろごろしているのと、がよく知られている。

*3:ニュートリノ振動で説明される。

*4:それとは別に、名前さえ違っているのもあった気がするが、思い出せない。

*5:追記。思い出した。プロメチウムがイリニウムになっていたんだ。

*6:よく、年配の人の人権意識が希薄だといって腹を立てる人がいるし、その怒りは正当なものなのだけれど、よほど勉強している人でないと、今の若い人の感覚を知識ではなく身体で理解して行動に移すのは、かなり高い能力の持ち主でないと難しいのだろうな、とも思わされた。

*7:それか人によって右脳と左脳の性別はまちまちなのだけれど、この種事項の右脳と左脳はたまたま男女で別れていた、とお茶を濁すか。

*8:←何を偉そうに……。

最終課題:ゲンロンSF新人賞梗概感想、その3

 

■近況

 昨日はジョギングをした。以前マスクをしながら走ったら相当に息苦しかったので、今回はバンダナを口と鼻の周囲に巻いてみた。これがなかなか悪くない。マスクのように緩んでこないし、適度に息が通る。

 ただし、外見が少々怪しいので、バンダナの模様を選ばないと西部劇の銀行強盗みたいになる。このままコンビニに入店したのに別段不振の目を向けられなかったのだが、鏡を見ると相当に怪しい。国が国なら警察沙汰だ。

 そういえば眼鏡がゆがんできたので直したいのだが、最寄りの眼鏡屋が閉店している。耐えきれないほど歪んできたらどこか近所で開いていないか探そう。

 

 以下感想。

 

木玉 文亀「Eyeware

 エコーチェンバー現象に代表されるように、最近の人は見たいものしか見ていないのではないか? という疑問はホットなトピックなので、SFのテーマとしてはいい。

 あとは、キャラクターをどうやって魅力的に描くかだろう。現代からの疎外感から情報テロリズムに身を投じるという、あまり明るくないキャラクターの行動原理に説得力をどうやって持たせるかだ。今のままだと、皮肉屋の青年がフェイスブックの雰囲気が気に食わないだから嫌がらせしようとする、みたいな感じなので、例えば情報マスキングによる事故で身内を失ったとか、それくらい強い動機が必要ではないか*1

 それと、読み方によっては読者に「あんたらも家畜だろ?」というメッセージを投げかけている気がしていて、こういう読者に喧嘩売るタイプの作品が僕は大好きなのだが、読者がそれを納得して受け入れられる作品にするのは、難易度が高い。

 

黒田 渚(タイトル不明)

 AI内部にも派閥があるという設定、面白そう。

 問題は用語の混乱だろうか。ロボットを動かしているのはAIだよね? 対立するの? みたいな違和感を覚えた。身体を持つ人工知能と持たない人工知能の対立という軸は面白いので、なにか適当な用語をでっちあげれば納得できるのではないか。

 ちょっと趣旨がずれるけれども、その対立軸をネットにつないだクラウド型のAIと、ネットから切断して個別に判断するスタンドアローンAIの群れという対立軸でも書けるかも*2

 それとラスト。人間の少女を拾っておしまいだろうか。むしろ、そこから話が発展するのではないだろうか。人間を滅ぼしてしまったけれど人間にしかできないことがあったので奪い合いになるとか。

 AI同士の派閥の対立や格差については多分たくさんあるけれど、たとえばダン・シモンズハイペリオン」シリーズがある。あれはAIが人類との共存を目指すグループと、人類の根絶を目指すグループと、その対立を超えて自分たち以上の究極知性を創造しようとするグループに分かれている。探せばもっとたくさんあるはず。

 

■九きゅあ「デスブンキ ヌーフのダム」

 この人は独特のルールを思いつくのが得意で、こんな発想とても僕にはできないな、といつも思うのだけれど、独自性には同時に分かりにくくなる危険があって、つまり梗概に示されたルールをどうやって読者に伝えるかが課題になる。箇条書きにするとつまらないし、だからと言ってこのルールを発見していく過程を描くのは、レベルが高い。でもチャレンジすると楽しいと思う。

 あとは、実在の災害を描くことの難しさかな。べつにテーマにしちゃいけないわけじゃなくて、ただし現実の事件を描くときにはそこで起きたことに対するある種の誠実性が必要になる。誠実という言葉は使われすぎていて安っぽくなっている気もするが、基本的には次の二つだろう。

 一つは事実を尊重すること。別に芸術作品なので事実と違うことを書いてもいいのだけれど、それはよく下調べしたうえで変更する必要がある。

 もう一つは当事者を重んじること。僕は基本的にどんな表現をしてもいいと思ってはいるのだけれど、例えば災害の関係者が読んで不快になることはしょうがないとしても、自分のつらい経験をだしにして、好き勝手書かれたと思わせてしまうことはしたくない。

 

■宇露 倫「国桜」

 最初の梗概に戻ってきた。

 似たような話ではあるのだが、少しずつ焦点が変わってきており、話に奥行きが生まれてきている。例えば命を絶ってしまう親戚だとか、一族の異能のことだとか、そういう設定をうまく梗概に盛り込んでわかりやすいものになっている。

 あとは、トレバーが桜子に危険を顧みずに世界を見せてあげたという、合理的ではない判断を入れるとしたら、それに対する説得力ある描写を期待する。たとえば、あまり体の丈夫ではない彼女が病床で常々世界を見て回りたいと必死に訴えていたとか*3、理由が欲しい。

 あとは作者自身の感情のコントロールか。クリエイターが自分の経験に近いことを書くときには、過度に感情移入して読者がついてこられなくなるほど自分語りをする危険が、常にある。まあ、今までの作品を読んでいる限り、そんな心配はあまりしていないのだけれど。

 それと、石楠をどれくらい嫌な奴に書けるか、光属性の著者にはちょっと期待している。

 

■藍銅ツバメ「めめ」

 神様ではなく仏様なのだけれど、中尊寺の境内にも「めめ」と書かれたのがある峯薬師堂ってのがあって、やっぱり眼病にご利益があるそうだ。

 さて、目というのは雄弁に表情を伝えるし、顔の認識で大きなウエイトを占めているからだろう、目に関する怪異はたくさんあって、僕の好きなテーマだ。一つ目小僧と三つ目小僧とか、顔の認識をバグらせる感じがあって、子供のころすごく怖かったのだけれど、今では大好きな妖怪の一つだ。目目連らしい妖怪も出てくるし、そういう目玉系妖怪百鬼夜行になるのが楽しみだ。

 豊臣秀吉が重瞳*4であったという説もあり、目に関する伝承は、多くの人を引き付けるのだろう。

 李もかわいい。異界からの使者で間違いなく危険な存在なのだけれど、寂しいから人間に危害を与える妖怪が、昔から哀れで好きなのだ。

 そうなると、いつまでも妹を守らないといけないので李のところに行けないというのも、妹のおかげでぎりぎり現世にとどまっていられるとも読めるし、シスコンのせいで彼女ができないみたいにも読める。

 

■中野 伶理「限りない旋律」

 わざと病にかかり、悪化する精神と身体の状況の中、ぎりぎりのタイムリミットで最高の作品を生み出す、というモチーフ、マン「ファウストゥス博士」を連想させるので好き。音楽を文章で描写するのは至難の業だが、講座での言葉「人は文章で描写された音楽に感動するのではなく、音楽に感動している人の姿に感動するのだ」ということを胸に頑張ってほしい。

「忘れることのないAIは、郷愁を持つはずもなかった」というくだりもいい。人間とは全く異質の存在なのだ、ということが端的に示されている良い文章。

「リヒトは、ミナに対して恋愛感情を持っていると思っていますが、ミナとオルガが抱くのは興味に留まります。一方で、ミナの視点では三者の感情がさほど変わらない(突き詰めれば傾向性である)ような気がして、思案しております」とのことだけれど、別にどれかと選ぶ必要もないと思う。それぞれの視点を並行して示し、それこそ真相は藪の中、で構わないのではないだろうか。互いの欲望はすれ違っていて、それぞれが独りよがりかもしれないけれども、やっぱり人間にもAIにも、SF読者としては共感してしまうのだ。

 

 以上。

*1:ちょっと安易な具体例かもしれない。主人公のキャラクターが著者の梗概段階のイメージから変わってしまう。ただ、シニカルなキャラを魅力的に書くのは難しい。僕自身がシニカルな人間なので僕なら好きになるのだけれど。

*2:この案は無視してもらって大丈夫です。好きなものを好きなように書いてください!

*3:この例だとわかりやすすぎるので、もうひとひねり必要だろうけれど。

*4:作中に出てくる瞳が複数ある症例は実在する。

最終課題:ゲンロンSF新人賞梗概感想、その2

 

 昨日はさんざん長話をしたので、今日は早速本題に入ろう。

 

■古川桃流「老舗の品格」

 盛り上がるポイントが複数考えられているのがいい。作者が自分の得意なジャンルを自覚しているのもいい。

 ただ、他人の顔色をうかがってきたはずのヨシノが「商売をバラされたくなければ言うことを聞け」とアラタに詰め寄るのは考えにくい。梗概では言及されていないが、こういう性格の変化のきっかけとなる事件が起こるのだろうか? そうでないのなら、逆に気が強すぎて周囲から煙たがられて、退職せざるを得なくなると考えるほうが自然だ。

 それと、どうして逆説的に「品格」をタイトルに選んだのだろう? 技術面からタイトルを選んだほうがいいのでは? アイロニー

 

■榛見あきる「踊るつまさきと虹の都市」

 なんだかすごそう。

 チベット仏教については「死者の書」を読んだきりでほとんど知らないし*1、舞踏についても無知なのだが、そうした読者に対してどうやってわかりやすく情報を伝え、かつ楽しませるかが課題となるだろう。かなり難易度が高いが、「無何有の位」という実績があるから期待できる。

 それと、完成したら参考資料を教えてください。

 

■よよ「うつろね」

 深刻なテーマだが、舞台が美しく繊細に表現されており、押しつけがましくない。押しつけがましくないというのは、明らかに政治的なテーマを含んでいるのだが*2、物語が政治的なテーマからしっかりと独立して一つの生命を持っており、女性による女性の抑圧というテーマに奉仕するだけになっていない。なので、ぜひぜひ読んでみたい。

 角の扱いも面白い。日本文化のコンテクストからは、当然蛇と化す鬼女が連想されるが、ここでは同時に男性原理も予感させており、意味が多重になっている。

 小説・物語とはこういう多重の意味を表現するのに適した手法だ。自分の感じている言い難い戸惑いを解剖するのとは違うかたちで、もやもやを整理整頓できる。

 

■式さん「我が東京ドームは永久に不滅です!」

 期待のバカSFだ!

 たぶんツッコミを入れたら負けなのだが、とりあえず「NO SUMOKING DIMENSION」のような過剰さで読者を圧倒してほしい。ただし、そこでやったダンテ「神曲」をすべてなぞるようなことはしなくていい。読者のついてこられる過剰さと飽きさせる過剰さを峻別できれば勝てる。

 

■岩森 応「スターラー毛布」

 私生活で大変だとのこと、お疲れ様です。

 この梗概は実験対象にさせられたもう一つの地球が舞台で、そこではある種の場がかぶせられ、そのせいで奇怪な現象が起こっている、という理解でいいだろうか。だとすれば、何のためにそんな実験が行われているのか、そしてそのある種の場の正体とは何か、をはっきりさせると、梗概がぐっとわかりやすくなるはず。

 それと、舞台が実験対象だということは明確にせず、読者の想像に任せるか、漠然とにおわせるかくらいにしておくといい。箱庭世界が舞台だったというのはやや反則だ。というのも、どんな変なことが起きても、実験だったらしょうがないよね、となってしまうからだ。

 あとは、コンビニあるあるなんかを小説にしたいのだったら、先行作品の研究も大事だな、と思う。大森氏のNOVAに収録されている牧野修「黎明コンビニ血祭り実話SP」やアマサワトキオ「赤羽二十四時」がある。もう読んでいたらごめんなさい。

 

■渡邉 清文「メドゥーサの合わせ鏡」

 こういう神話ものが好きなのだけれど、ナルシス(ナルキッソス*3)には自分しか見えていないのでメデューサの攻撃が効かないという設定、この時点で最高。あとは自分しか見えていない彼がヘファイストスを誘惑できるかどうかが心配だが、何とかなるだろう。

 

 以上。

*1:あとはずっと昔にダライラマ十四世の自伝を読んだ。

*2:女性も活躍しようと思えば活躍できる、という設定が憎たらしいほどうまい。

*3:【追記】めんどくさいことを言うと、こっちの表記のほうが原音に近いから好き。とはいえ、わかりやすさを優先すべきケースもある。カストルの兄弟はポリュデウケスよりもポルックスのほうが通じる。さらに表記の問題に入るとヘファイストスかヘパイストスかというのもある。要するにφの音をどう表記するかで、どっちも正しいが、アフロディテとアプロディテのように、φを含んだ名前が別にあるのに、「フ」か「プ」かのどっちかに統一されていないともやもやする。あとは長母音をどうするかというのもあって、オリオンも正しくはオーリーオーンだが(以下略)。

最終課題:ゲンロンSF新人賞梗概感想、その1

 

■謎のアクセス件数増加

 このブログ、SF創作講座の実作感想の記事を書いたときには、大体50から60ほどのアクセスがあるのだけれど、記事を書いていたわけでもないのに、なぜか430日に40件ほどのアクセスがあった。どこかにリンクを貼られたのかな? 謎である。

 

■妹のラムカレーがおいしい

 自分も妹のテレワークをしている。さいわい、昼休みの時間が重ならないので、台所の取り合いになることもなく、それぞれで昼をさっと作って食べている。ただ、自分の場合ありあわせの肉と野菜を炒めるか、レトルトに野菜を投入するという程度の手間しかかけていないのだが、妹はきちんと料理をしている。そのうえ、妹の勤めている会社の工場が操業を停止したとのことで、長い休みになってしまったそうだ。おかげで、最近は妹の作ったクランベリークッキーだとか胚芽スコーンだとかをごちそうになっている。この間は誕生日だったので、ベリータルトを作ってもらったし*1、今日のラムカレーは絶品だった。スパイスからきちんと作っていて、生涯で食べたうちの上位3位には間違いなく入る味だった。

 妹の自慢をしてどうする、という声はさておいて*2、確かにうれしくはあったのだけれど、自分も小説を書くよりは、何か料理を作ったほうがずっとクリエイティブで、人を喜ばせるのではなかろうか、とちょっとだけ思ってしまうのである。

 でも、これだけ料理が上手な人がいると、きっとその腕前に甘えてしまって、僕はまた明日も手抜き料理を作ってしまうに違いない。

 

■散歩の話の続き

 前も書いたかもしれないが、原則として曜日ごとにどの散歩コースにするかを決めている。毎朝どこに行くのかを考えるのは面倒だし、決めておけば曜日感覚を失わないで済む。そういうわけで、同じ花壇や植木の前を一週間ごとに通るのだが、花開いたり色褪せたりするのがわかって楽しい。毎日見ていてその違いを見分けるにはそれなりの観察力が必要だが、一週間ほどあけてみれば、幾分ぼんやりしている自分でも、さすがにこの花は元気がなくなってきたな、と気づくのである。

 そういえば、花でふと思い出したのだけれど、誕生日と母の日に花束を贈る。その時にいつも行く花屋さんは年に二度しか行かないのに、顔を覚えられていたのには驚いた。接客業とはそういうものなのか、花を買う自分と同年代の男性が少ないのか、自分の顔立ちや挙動がよほど印象的であったのか。どれなのかは謎だ。

 さて、近所を歩いていると、かなりの家庭で園芸を楽しんでいることが見受けられるのだけれど、先日近所のお寺を久しぶりに尋ねたら、中に花壇ができていて驚いた。ほかにも、急な石段の下には登れない人のための遥拝所があったり、庚申塚があったりと、幼少の頃には気づいていなかったものがたくさんあり、大変面白い。

 自分の近所は古い街道沿いの山を切り開いて作ったニュータウンなので、駅から離れるとそうした歴史をうかがわせるものが結構ある。江戸時代に近隣の村の人々が建てた碑であるとか、時代は下るが日露戦争や太平洋戦争での戦没者を祀った慰霊碑だとか、昭和天皇の歌碑だとか、歴史の浅い地域に見せかけて意外と歩いていて退屈しない。

 ところで、今日はいい天気だったので近所の公園まで読書をしに行ったのだが、思いのほか遊んでいる家族の姿が多く、心温まる光景ではあったのだけれど、早めに撤退した。平日もそうだったのだが、最近はごみ収集車からも「不要不急の外出は避けてください」との放送がずっと流れていて、平時ではないのだなあ、と当たり前のことを実感しているのである。

 

civilization 6の話の続き

 こういうゲームでは、大抵敵が攻めてくるので撃退しないといけないのだけれど、敵ユニットを撃破するよりも、内政でちまちましたことをするほうがやっていて楽しい。どういう都市計画をしたら一番スコアが稼げるかとか、どの政策を選んだら生産力にブーストがかかるかとか、美術品から出る文化力を最大化するためにほかのプレイヤーと美術品を交換するとか、そういう地味な作業をするのが好きだ。

 箱庭的なものが好きなのだろう。

 

■疑問:外に出られないし、小説を書いていないから文章が長くなるのではないか?

 たぶんその通りだ。

 

以下、感想。

 

■天王丸景虎「皿の外」

 二つの極端な社会を比べて、どちらが幸せかを選択するタイプのストーリー。僕もこういうの好き。

 ただし、人食いをSFとして成り立たせるための設定を練る必要がある。そもそも、どうして人食いたちは人間を食べないといけないのか。クローンを作れるのだったら、人間の肉を培養して食べればいいのであって、わざわざ生きた人間と交渉して肉体をもらう必要がよくわからない。梗概は書ける量が短いので省いている可能性があるが、その設定はしっかりしておかないと、大きなプロットの穴になる。

 人間を食べる理由は何だろう。また、わざわざアップロードさせる優しさもどこから来ているのだろう。宗教上の理由? 作者の、誰からも干渉されずに隠遁したいという願望がそのまま漏れているのだとしたら、その願望を切り分けて、個人的な空想から普遍的な物語にすることが求められる。

 

■稲田一声「おねえちゃんのハンマースペース」

 姉SF

 ギャグテイストのマンガ物理学から、自分が複製されたものであるというホラーの落差が面白い。序盤の姉との仲良しぶり、父親からの暴力に由来する姉弟相互の依存へのステップを丁寧に書いていけば、弟が姉をハッキングしてしまう執着心や、姉の気持ちを救うためだけに全人類を一度分解して再構成してしまう妄念に、説得力が与えられる気がする。

 あとは、このハンマースペースにどの程度説明を与えるかだろう。面白い理由が思いつかなかったら、変に理屈を考えないほうがいい。

【追記】なんでも生み出すスペースを子宮としてとらえ、姉らしさと女性らしさを(場合によっては皮肉を込めて)テーマにすると、また違った面白さになるかもしれない。万物を飲み込む恐ろしい母としての姉。原始的な神話っぽい。

 

■今野あきひろ「受戒」

 梗概段階では、これどうやって作品にするんだ、的なものを多く見せていた今野氏だが、当梗概は当人の別れの挨拶で結ばれており、まるで現実と作品をリンクさせようとしている試みのようにも見える。とはいえ、ツイッターは本当に削除してしまっているようで、いったいどうしてしまったのか、と心配にもなる。

 しかし、いずれどこかで、という風に終わっているので、きっとどこかで会うこともあるのだろう、と前向きに考えておきたいのだ。

【追記】ツイッター復活してた。良かった。

 

■藤 琉「螺旋のどん底

 すごいネタのてんこ盛りだ。楽しみだが、原稿用紙120枚で終わるだろうか。

 遺伝子による差別、人肉食、テーマとしてはとてもキャッチ―だが、まじめに扱うと長くなる。そして、中でも特に天皇が難しい。

 たとえば「日本沈没」では皇室の避難先として、確かスイスと南米とアフリカが挙げられるけれど、天皇に関する言及はそのくらいだ。というのも、まじめに天皇制度について扱うならば、文庫本二冊程度では収まらないからだ*3

 同じ問題はゴジラでも出てくる。なぜゴジラは皇居を襲わないのか、監督の政治的な判断なのか、という話になるだけれど、単純に天皇を扱うとプロットが複雑化し、二時間で終わる脚本が書けない、という単純な理由なのではないか、と僕は疑っている。僕らは天皇について多くの意見を持ち、それなりに長く話すことができるからだ。

 つまり、天皇制についてどのような立場をとるものであれ、日本人と天皇制度の結びつきが深すぎて、短い話としておさめるは難しいのだ。例えば歴史小説を通じて天皇について語ろうとしても、生真面目に一生涯を通して語りたくなってしまうらしい*4。いっそ外国人のほうが、それこそソクーロフ「太陽」みたいに*5 、うまく切り取れるのではないかと思っている*6

 何が言いたいかというと、テーマ詰め込みすぎでは? ってのが心配なのだ。

 

■甘木 零「開化の空を飛びましょう」

 第7回のプロットを第8回の設定を盛り込んで精密化している。キャラクターの設定も細かく魅力的になっている。

 あのときは実作がなくて、ちょっと残念だったので楽しみにしている。特に取材するにあたって、書籍ではなく実際に関係者に当たったのは甘木氏くらいで、だから相当にいいものができるじゃないか、って期待している。素晴らしい空想は、細部をどこまで具体的にイメージできるかで決まるのだし、それは直接顔を合わせた人間から受け取るのが一番だからだ。

 

■夢想真「蘇る悪夢」

 誰しも不確かな記憶を持っているもので、その正体は恐らく一生明らかにならないのだろう。そういうもやもやしたものを作品に盛り込めたらいい気がする。

 問題は、これをSFでやる意味だ。下手に、最新の記憶の分析装置を持ち出すよりは、カウンセリングを通じて正体不明の男の記憶が鮮明になるにつれて、周囲に怪現象が増えていく、とやったほうがわかりやすいのではないか。カウンセリングのシーンは難しいだろうが、そうやって生の人間のやり取りから化け物が出るほうが、機械を通じて出てくるよりも怖くはないだろうか*7。人間の記憶のライトプロテクトってそもそも何なのか、というかそれは簡単にロックを外せるものなのか、疑問は尽きない。それと、SFで新しい技術を持ち出すときには、その技術の登場によって起きる社会と、人間の意識の在り様の変化が描かれたほうが面白い。

 もしかしたら、文字数の制約のせいで書かれていないだけかもしれないので、そうだとしたら申し訳ない。

 

 今日はここまで。

 4回記事を書けば終わるかな。最初は数におびえていたけれども、何とかなりそうだ。

 

 以上。

*1:「今度は何作ってるの?」と尋ねたら「今日は君の誕生日でしょ……」とあきれられてしまった。

*2:別に仲がいいわけではない。休みの日に一緒に出掛けたりしないし。なんというか疎遠ではないが適度な距離があり、付かず離れずで居心地がいい。

*3:一色登希彦氏の漫画版ではかなりのウエイトで触れられているらしいが。

*4:昭和天皇物語」もそうかもしれない。

*5:すみません、まだ観てません!

*6:東浩紀クリュセの魚」がそうなのかもしれないが、遠い未来の天皇の子孫を扱っただけでもあの長さになる。

*7:個人の感想です。

毎朝の散歩、季節の花、civilization 6、それから最終実作に向けて

■近況

 美術館に足を運べない日々が続いている。

 はじめのうちは、自分の週末の大部分を占めていた趣味を封じられてかなりうんざりしていたのだが、近頃は通勤に使っていた時間帯に人通りの少ない近所を散歩しながら、道端や軒先の色とりどりの花を眺めることで自分を慰めている。考えてみれば、園芸部的なものから離れて以来、植物の前でじっと足を止めるのは久しぶりだし、そこで育てていたのは野菜ばかりで、花束を除いて色彩や香りを楽しむという経験からは、それこそ小学校の朝顔の観察からずっと遠ざかっていたのだ、と今更のように気づいて驚いている。どの花も香りが優しくて、形もユニークで、今までは花の名前なんてろくに知ろうとしてこなかったのだけれども、ちょっとは覚えようか、という気分にもなりつつある。

 思えば美術とはほとんどが視覚の芸術で、時折インスタレーションや映像などほかの五感を刺激するものもあるのだけれど、嗅覚というのは珍しいものであるし、しげしげと眺めてみると、人工のものにはない色彩を花は備えていて、鑑賞するには美術品とはまた別の感受性が求められている。そもそも自然の生命に作者の意図といったものはないのだから*1。さらに言えば、心の別の場所を刺激させられているように感じられていて、美術館ばかりに足を運んでいて固まりかけていた精神が、より自由に活動できるようになったようでもある。そういうわけで、美しいものに慰められる経験からは全く縁遠くなったわけではない。それどころか、生活に新しい楽しみを見出しさえした。春だからなのかもしれないが、秋まではこの調子で楽しめると期待している。

 読書も何とか続いている。家の中の読書も乙なものだ。自分は、電車の中の読書が一番集中できると思っていた。というのも、通勤時間は隙間時間であり、読み進められる時間の長さが決まっているので、ある程度は強制的に集中させられることになるためだ。だが、これも慣れの問題だったらしく、今ではテレワークの休み時間や退勤後に、のんびりと文庫本をめくっている。横浜駅周辺の書店が軒並み閉店していて、そこが困っていることなのだが、そろそろamazonで注文する予定だ。新しい習慣をめったに導入しない性格のせいだろう、kindleもまだ導入しておらず、この機会に試してはどうかとも思ったのだが、一日中ディスプレイを眺めている生活は目が疲れるし、片頭痛持ちとしては幾分つらい。本当のところ、いくら家が狭くなるとしても、いまだに書籍は紙の媒体で欲しいのだ。それも、大型書店で中身を確認してから買いたい。

 さて、ディスプレイがどうこうと述べた後では矛盾するようだが、最近はcivilization 6もプレイしている。中毒性の高いことで知られているゲームだが、現に久しぶりにプレイしたときはかなり夜更かしをしてしまった。もっとも、最近は適度に飽きてきており、さほど睡眠時間を犠牲にせずに切り上げることができるようになった。それにしても、普段はあまりゲームをやらない人間の感想なのだが、実績(トロフィー)というのは面白い制度だ。実績というのは、ゲーム内で一定の行為をした場合メダルがもらえるシステムなのだけれど、中には相当意識したプレイをしないと解除できない実績もあり、同じような最適解に近いプレイをみつけてすぐにゲームに飽きてしまう、ということがないようになっている。よく考えられているものだ。

 

■第10回の講座までの予定

 長々と日記を書いてしまったが、ゲンロンSF創作講座の受講生として、これからどうしようかをメモしておこう。

 まず、最終実作の梗概の感想を書く。今まで実作の感想を記録してきたが、梗概は数が多かったので実作だけで手いっぱいだった。さっと一読して講座に臨むことが限界だったのだ。今はこうして時間が十分にあるので、それぞれの梗概から感じたことを記録しておきたい。

 それと、遠ざかっていたダールグレンラジオも視聴したい。別に自分の梗概に触れられないから拗ねていたわけではないのだが、自分は聴覚よりも視覚からの情報の処理を得意としており、音声だけではどれほど面白い内容でも、ふと集中力が途切れてしまう瞬間があるのだ。できることなら、全部聴いて自分の梗概感想との比較をしたいのだが、最低限自分の梗概に対する指摘だけは拾っておきたい。ついでに、現メンバーの公開している梗概の感想を見つけ、そこもチェックする。そのうえで最終実作を書いたほうが、きっと楽しいだろう。

 

■それ以降の予定

 さて、問題はそれ以降だ。たぶん、自分が最終実作を出したとしても、それが最優秀賞を取ることはないだろう。自分の持てるものをすべて投入したところで、その先を行っている人間がこれほどいると知ってしまった。諦めるのではない。最善は尽くす。それでもなお、勝てない公算が強い、というだけのことだ。そこに不満はない。自分がやりたいことをやりたいようになったのだから、そこで出てくる結果は比較的容易に受け入れられる。結果がすべてという表現は、過程そのものと過程に伴う楽しみを軽視しているようであまり好きではないのだが、やはり結果は厳然たるもので、梗概は一度も選ばれていない。

 今後の選択肢としては、来年も講座に参加するかしないか、同時によその公募に投稿するかしないか、そしてそもそも小説という表現手段を選び続けるかどうか、ということになる。

 ここで、そもそもなぜ自分が小説を書き始めたのか、について振り返っておこう。

 何かを書き始めたのは高校時代だ。その頃の創作は、詩であったり、架空の神話であったり、あるいは実在しない人物の短い伝記であった。思春期の常として、とにかく世界に何かを訴えたかったのだ。そのうちに、登場人物を自分の意のままに操る楽しみを覚え、友人との間でリレー小説を始めた*2

 そういうSF・ファンタジー的な傾向とは別に、告白的な純文学も大学で書き始めた。これは、自分が個人的に深く傷ついた経験を幾分突き放して書くことで、自己の客観視を狙ったものだった。当時の心境として、そうしたことを書かずにはいられなかった。作品として優れているかどうかは別の次元で、あれを書くことは自分の感情を整理するプロセスとしては必要であったし、結果的には自分の経験を言語化して伝えるいい練習になったと思っている。

 とはいえ、そういう自己治療の試みが功を奏したのだろうか、自分は小説を書かないと壊れてしまうのではないか、という生々しい恐れがどんどん薄れていってしまった。

 創作意欲というのは、身体の中の荒々しいエネルギーで、強すぎるとコントロールが効かずに作品全体をしばしば独りよがりにしてしまう。激しい怒りにかられた創作は、その怒りをコントロールするだけの苛烈なまでの意志の強さがないと破綻する。その一方で、弱すぎるとそもそも創作をしようという心境にならない。淡々と、起伏の少ない日記のようなものが生まれてしまう。誰かがクリエイターになるときには、この世に対する激しい憤りがあるか、欲しいものが決して現世では手に入らないという飢餓感が原点にある気がする。その個人的なトラウマを(時には小説以外の形で)十分に表現しきった後、自分のことだけを超えてまだ言いたいことがあるのだったら、つまり普遍性があるのなら、その人は作家としてやっていける気がする。自分のトラウマが癒えたとしても、まだ何か言い足りない、その感覚がクリエイターをクリエイターたらしめているのではなかろうか。

 閑話休題。自分にも面白い物語を書こう、という意識はまだある。それでも、どんなキャラクターを出そうか、あるいはどうやって話を盛り上げようか、とプロットを検討しているよりも、こうして日記らしきものを綴っているときのほうが楽しめているのではないか。そんな風に昨今は疑っている。

 自分の小説は、子どもが砂場で城を作り、山を築き、川を掘るときのように、自己完結的にものを弄り回しているときの楽しみであって、そこには読者が不在となってはいないだろうか。他人が読んだときどんな気分になるか、という計算が欠落してはいないか。

 あるいは、自分はこういう人間なのだ、と高校生の頃のように世間に訴えたいだけなのかもしれない。自分という存在をわかってもらいたい、受け入れてもらいたい、というだけのことなのだろうか。だとすれば、それは小説で表現するべき筋合いのことではない。

 なぜ書くか、それは何度も問い直す必要がある。自分はこういう人間だ、ということを承認してもらいたいのであれば、小説よりもエッセイやこういう日記のほうがずっと効率的だ。わざわざ架空の人間の話を書く、その必要は何なのか。さらにSFというジャンルである必然性は何か。技術によって変化していく人間の姿を通じて、いったい何を表現したいのか。未来の予測をしたいのであれば、これもまた小説である理由がない。

 もちろん、似たような感受性を持った人間の集まる場の居心地がいいから、そこに顔を出す、その一環として創作がある、というのも全然かまわないだろう。

 だが、これからやろうとしているような、感想をひたすら書いていくというのも、コミュニティ内部での居場所を作る方法の一つだ。小説でなくてもいい。

 もっとも、来年も全作品の感想をやるかどうかは不明だ。楽しいのは確かだが、自分が参加していない(かもしれない)講座の作品の全員分の感想を書くだけのモチベーションを保つのは、結構大変な気がするのだ。

 そういうわけで、ゲンロンSF創作講座に来年*3参加するか、休んで再来年にするか、そもそも小説を書き続けるかどうか、なんてことで迷っている、という冒頭の話に戻るのである。

 

■もう書けないかもしれないとは言うけれど

 自分は作家にはなれないのじゃないかな、という疑いがぐんぐん強まっている。

 でも、そこに苦痛はない。自分は商業に乗る表現者にはなれないかもしれない*4。だが、創作活動によって、多くのものを得た。それは、この講座での同期との良い関係性はもちろんで、それは言うまでもないことなのだけれど、それとは別に創作することの困難を知ることで、他人の書いた小説をより深く楽しめるようになった。

 それは、スポーツを観戦するにあたり、その経験者のほうがより深く楽しめるというのに似ている。選手がどこでどんな苦労をしているのか、あるいは満足のいかないプレイをしてしまったときにどこで引っかかっているのか、それが推測できるだけでもより深く楽しむことができるし、選手をより共感的に応援できる。地味で粘り強い鍛錬によって、試練を乗り越えた時に我がことのように喜べるのだ。

 良い作品のどこが良いか、そしてそれを生み出すまでの苦労がどれほどのものか、それを知っているだけでも作品を一歩踏み込んで鑑賞できるし、好きな作家により近づける読書ができるのではないか。そんなことを考えながら、今日もまたのんびりと読書をしている。

 

 以上。

 

*1:その花をそこに植えることを選んだ園芸家の作為はあるが、そこまで踏み込んで鑑賞しているわけではない。

*2:その時の友人がライトノベルの新人賞を受賞したので、自分もいけるのでは? と思ったことは否定しない。

*3:ウイルスでいつになるかわからないが……。

*4:文学フリマとかもありかもしれない。これもまた新型コロナウイルスでいつになるかわからないのが残念。

2019年度ゲンロンSF創作講座第10回「「20世紀までに作られた絵画・美術作品」のうちから一点を選び、文字で描写し、そのシーンをラストとして書いてください。」実作の感想、その2。 それからイギリスに住んでいたこと。

 時折、SF講座の参加者のツイッターをのぞくのだけれど、そこで誰かが昔イギリスに住んでいたということを述べていた。あれ、誰だったっけ。自分も幼児の頃に住んでいた覚えがあるので、意外な共通点に驚いたのだ。

 

 以下、後半戦。

 

■黒田 渚「エンドレス・ステアケース」

 シミュレーション人格の話として面白かった。なぜ無限階段の世界に安らぎを見出したのかははっきりしないのだが、腹落ちはしている。単純に休養が必要なのだろう、と理解した。

 ただし、面白い分設定が少しぶれているところがあって、それが気になった。たとえば、シミュレーション人格ではどのくらい記憶の削除が容易なのかとか、どうしてここまで人工知能の権利に関する整備が遅れたのかとか*1、あとは$1$0からしゅるしゅると簡単にコピーというか呼び出せたのに、何で最初の過酷な実験のときに出てこなかったのかとか、そのあたりも疑問。

 なんで$0がここまで自分を追い込むキャラクターになったのか、そのあたりをもっと掘り下げたらさらに良くなる気がする。今のままだと、うつ病っぽくなってきたからちょっと休職しましょうか、みたいなシンプルな話で終わってしまっている。

 

■九きゅあ「東京五蓮1964

 デバッグ探偵という概念がユニーク。現実世界にもゲームみたいなバグが起きることになっているのか、現実もまた一つのシミュレートされた世界だった設定なのか、まではわからなかったが、これだけでシリーズにできそう。だから、このダジャレオチはちょっとどうなの、と思わなくもない。現実と絡めたのは面白いが、この状況でこれを面白いと素直に思ってくれる読者がどれくらいいるかどうか。十年二十年後だったらもっと笑えたかもしれない。

 別に不謹慎気味なダジャレオチがいけないのではなく、作品の雰囲気とマッチしているか、伏線が十分なのかが問題なのだ。昭和史を描いた朝ドラの最終回に突然ゴジラが出てきてヒロインを踏み潰すとか、何も考えないで読めるラブコメ漫画が突然本格ミステリになるとか、やったら読者は肩透かしを食らったように感じる。あるいは、今まで積み重ねてきた世界観をひっくり返されて腹を立てる。「絶望先生」とかそうじゃん、と反論もあるだろうが、作者はそういうひっくり返す芸風で元から有名だし、最初から伏線は丁寧に張っている。ひっくり返すのはかなり高度なテクニックだ。

 それと、蓮の技を駆使する箇所があまりにも説明的だという印象。これは、主人公や敵が技の仕組みや効果を解説してくれるタイプのエンタメもあるので、いきなり蓮の花の物理特性を説明するのもアリではある。ただし、全体として推理の過程とかも主人公が検索して勝手に思いつくので、読者がついていきにくい。ついでに、マイクロメートルはμではなくμmマイクロメートルと表記するのが標準で、マイクロとだけ呼ぶのは、一応はSI基準からは逸脱している*2

 あと、説明系の部分が多いと、ミスが許されなくなる。ミスというか、ツッコみたくなるポイント。たとえば、藕のピンインは確かにǒuだが、王はwángだからあまりにも牽強付会だと思われる*3

 たぶん、この作品もどこを一番アピールしたいかがぶれているのだと思う。デバッグなのかダジャレなのか、絵画に基づいた推理なのか、どこを一番アピールするべきかがはっきりしていない。絵画探偵でやるのなら、言葉で説明するのが難しいうえに見たことがない絵画を表現する苦労と、読者がおそらく知らないであろう背景的知識を飽きさせないように伝えるテクニックが、おそらくセットでついてくる。

 それと、さすがにホームズとワトソンという名前は安直すぎないか。

 

■宇露 倫「Caro Leonardo,

モナ・リザ」とかど真ん中すぎないか、しかも作品そのものを出して大丈夫か、と思ったのだが、何の問題もなかった。複製されるべき運命の作品が、逆にこちらを見つめる能力を有し、彼女の視点から芸術と青春に対する前向きな希望を描いたいい作品に仕上がっている。読んでいて気分がいい。

 ただ、小説としての完成度には不安も残る。文章がまずいのではない。人物造形が不自然なのではない。ただ、前々から気になっていたのだが、この人の登場人物は基本的に前向きな善人で、出てくる大人も基本的によき支援者である。安心する話を読みたい人には、きっと救済になると思うのだが、小説としては、もう少し厳しい試練を課したほうがいいかもしれない。他の作品にはもっと強い対立が見られるのだけれど、今作は弱かった。

 別に極悪人を出せといっているのではない。いや、この作者の書く絶対悪がどんな形になるか気にはなるのだが、それとは別の話だ。仮に、二人がパリに旅立つ結末が同じだとしても、小説を商業として成り立たせるためには、もう少し起伏が必要な気がしている。たとえば、この幼馴染の関係にひびが入りかけて、読者をハラハラさせるパートを含めてもいいかもしれない。あるいは教授が二人の邪魔をする嫌な奴とまではいかなくても、何か問題を抱えていて、パリ行きが延期になりそうで読者をハラハラさせるとか*4。あるいは、女の子が機械で視覚を補えなくなるほど重症になって、完全に失明する危機に陥るとか。なにか、ピンチがあるともっといいものになるのではなかろうか。

 光属性の著者ならではの、苦労するポイントかもしれない。

 

宿禰「地の塩」

 微生物の生態を持つ知的生命体、それからへんてこりんな繁殖。こういうのは基本的に好き。

 ただし、物語そのものは弱い。不思議な繁殖をする生き物のサイクルを見ておしまい、だ。所長の物語もないことはないが希薄で、しかも生き物たちとはっきりとしたコミュニケーションを取っていない。所長の独り言による、この生き物たちの生態の説明に終始しており、彼らと深い理解に達しているわけでもなければ、そこまでの強い努力をしている印象も受けなかった。淡々と生まれ、繁殖し、死んでいく。所長はなぜここにやってきたのだろう、この世界の在り様に罪悪感を覚えないのだろうか。背景をもっと知りたくなる。

 それと、けなすわけではないのだが、よその惑星とその先住民の植民地化というモチーフそのものは、これからどんどん使いにくくなっていくと思う。より倫理的というか、他者の権利や搾取について敏感になった人類が、わざわざこのような行為を選択する合理的な理由が思いつかない。農園だったらロボットにやらせればいい気もする。

 ところで、なぜタイトルを聖書から持ってきたのだろう?

 

■東京ニトロ「東京ゲルニカ

 筆名とタイトルの組み合わせが面白いので、きちんと完成することを期待している。

 崩壊を描くのでテロリストの背景を書かない、という方針だろうか?

 

■揚羽はな「翳りゆく星の祈り」

 好き。こういう暗い話も書けるのだなあ、と。

 主人公が、人間でないものに変わっていくタイプのホラーがあるのだが、その系譜にも属しているかもしれない。変身の過程はマグリットの作品から少し離れているが、そのほうがいい。あのイメージはサイエンスというよりもファンタジーに近い。ただし、普段書かないタイプの悲しい話のせいか、テンプレからの逸脱度は弱めだという印象。

 ところで、ちょっと思ったのだけれど、主人公がまず自分は人間じゃないと知ったら、もっと動揺するんじゃないだろうか。それとも、その過程が簡素なのが主人公の特徴であって、人間以外の生き物が出自である怖さと悲しさの表現として使われているんだろうか。

 これは自分にも返ってくるのだが、主人公がある秘密に直面して、衝撃を受けて終わり、ってのじゃなくて、そのあとの過程を描写する必要があるのかもしれない。

 

 以上。

*1:現実ではたぶん知性が類人猿並みになった時点で大騒ぎになると思う。と、言うことはこの研究が軍の機密だとか裏社会のものだとか、そんな設定になりそう。

*2:工学部を出ているとこういう面倒くさいことを言い出してしまうのだが、SF読者は理系が多くその辺にうるさいと思う。すみません。ちなみに、最近は小学校でもリットルは筆記体のℓじゃなくて大文字のLで教えているらしい。世の中変わるものだ。

*3:自分がこういうノリについて行けないタイプの読者のせいかもしれない。ただ、傾向として説明的だというのは間違いないと思うので、その面が輝くように細部まで磨くとすごくよくなると思う。

*4:理由は何でもいいので、教授が悪人である必要はない。持病で教授をやめなければいけず、彼女を推薦できない状況に追い込まれるとか。あるいは、発表した作品が誤解から炎上し、その対応に追われて主人公たちを助けてあげられなくなっちゃうとか。

2019年度ゲンロンSF創作講座第10回「「20世紀までに作られた絵画・美術作品」のうちから一点を選び、文字で描写し、そのシーンをラストとして書いてください。」実作の感想、その1。

 

■意外と少なかった実作

 今回は全部で十三作。二か月の猶予があったにしては少ない気がする。

 これが新型コロナウイルスに伴う社会のバタバタのせいなのか、単純に講座に疲れて心が折れてきたのか、最終実作に向けて充電しているのか、それはわからない。

 今回の課題が難しかった可能性もある。いつもよりも実作の平均文字数が明らかに少ないのだ。またもや番狂わせ、な気がしている。

 

■講座が終わったら、次はどんなものを書けばいいのだろう

 ツイッターかどこかで見かけたのだけれど、何を書いたらいいのかわからなくなった時には、自分が読みたいものを書くといいそうだ。いい言葉だと思う。自分にとっての理想が見えていれば、そちらに向かって歩いて行ける。

 十代の頃には、一つの作品があまりにも理想的で、自分のことをすべて説明してくれる、そんな風に思えるものなのだけれど、ある程度年齢を重ねていくと、好きだった作品の欠点も見えてくるし、作者の考えのうち自分と相いれないところがあるのにも気づく。でも、基本的にはそれはいいことで、それだけ自我が確立したということなのだろう。完璧に自分のための作品は自分でしか作ることができないし、本当に自分を癒す言葉は外からではなく、中から来る。他の人のかけてくれる優しい言葉はそのヒントであって、自分で納得するためには自分で肯定的な言葉を紡ぐ必要がある、ように思っている。だから創作する人も、一定数いるのではなかろうか。

 

以下本題。

 

■天王丸景虎「座敷封司の鬳」

 造語センスがいい。まず、SFでうまく漢字を使いこなせるというのは*1、それだけで世界観を表現するうえでの大きなアドバンテージだ。それでいて、ストーリーは複雑すぎないので、バランスが取れている。

 とはいえ、使いきれていない設定が不器用に投げされて過度に説明的な部分や、この表現は紋切り型過ぎてそのまま作中で使わないほうがいいのでは、と感じられる個所もあった。前者の例は「字空釜によって改変できる現実には三種類ある。/自意識とは別に存在している現実=実界。/それぞれの認識の中に存在する現実=意界。/虚構の中に存在する架空の現実=虚界」云々で、設定としてはかっこいいがストーリーやアクションの描写にあまり絡んでいない。そして、後者の「彼らに惑星の未来は託された」という個所は、梗概段階ならともかく、本文に入れるにはあまりにもテンプレ的な文章過ぎて、世界観が壊れかねない。

 アクションも説明としては理解できるが、具体的な動きは目に浮かびにくい。この辺は自分も苦手なのであまりアドバイスができないのだが、論理よりも五感を重んじるといいのかもしれない。世界観はかっこよかった。

 

■安斉 樹「Plutonic? Plastic!

 珍しいマイクロプラスチックSF。環境問題風刺ものとして面白い。

 問題点は、まじめな説明の後に、友達がラーメン食べたらプラスチック人形になっちゃいました、というオチが効果的かどうかだ。ホラーなのかブラックジョークなのか、焦点がぼやけている。一時間も環境問題について力説した恩師の話なんかは、ほのぼのした印象さえある。

 小説の中で情報を伝えるシーンとして、ブリーフィングや講義というのはすごく書きやすい一方で、作者が一方的に自分の言いたいことを言っておしまいにしてしまう危険な手段でもある。映画なんかだと、たとえば説明パートが退屈にならないように、スパイが潜入して聞いているとか、主人公は隣の席の女の子に夢中で話を全然聞いちゃいないとか、別の情報を並行して視聴者に与えるのだけれど、小説の場合それが難しい*2

 で、たぶんこの話をもっと面白くするには、読者に情報を与える順番を変えるといい気がする。たとえば、美玲ではなく生徒を主役にして、最初に「このお人形すごくきれい、あのフユコさんそっくり!」って導入から「え、あれってフユコさんの御遺体そのものだったの!」と落したほうが、オフィーリアみたいに怖くてきれいにならないだろうか。

 そうなると、幻想物語に寄せたほうがいい気がするので、マイクロプラスチックに関する議論をもっとあいまいにしたほうがいい気がする。ロジカルすぎると幻想にはなりにくい。

 

 さて、この二作の点数は大体同じになる気がする。ただし、ほかの実作にも面白いものが多く、その上実作提出者が少ないので、ほかの人にも意外とポイントが入るかもしれない。下手をすれば二点か三点を大きく超えて。これは、講座まで時間が十分にあり、大森氏以外の講師も読む時間が取れるからそう判断した。

 

以下、そのほかの作品。

 

■稲田一声「光子美食学」

 とても面白い設定。危険を知らせる酸味や苦みが早く戻ってくるとか、形状や色彩の変化がどう味覚に対応するとか、この設定で冒険小説が書けそうなほど面白い。ただ、タイトルと内容に齟齬がある気がする。このタイトルなら砂原が主人公なのがふさわしい。

 もう一つの問題はラストだ。せっかく主人公が成長したのに、事故で飛び降りて死んでしまうのはちょっと唐突だ。破滅エンドなら破滅に至るための明確な伏線が欲しい。その場合、成長したとしてもその過程で何か決定的に大切なものをなくしているはずだ。だから逆に、これは誰かが飛び降りるのを防ぐか、身代わりになってもう一度落下を味覚として味わうラストにするのが適切だったのではないか、とも思われる。

 ここまで他人の作品の内容にまで切り込んで改善案を出すのもどうかとは思うのだけれど、例えば主人公は目が見えていないと思っている人間の前で、見えているのと同じだけの能力を発揮して見せるとかっこいい。それは弟の飛び降りを防ぐ、でもいいかもしれないし、身内の犯罪を未然に防ぐ、でもいいかもしれない。

 

■今野あきひろ「気がついた時には溶岩が流れる火山の頂上でねていました、きみと。」

 この作品にはいくつか現実とは違うところがあるのだけれど、作品を解釈する上で役に立つかどうかはわからない。わざとやっている可能性があるが、一読して気づいた点を書いておく。

 例えば、そもそもグアテマラはそこまでクリケットが盛んな地域ではない。クリケットの人気が高いのは基本的にはかつて大英帝国に含まれていた土地、それから西インド諸島だ。そう聞くとグアテマラでも人気がありそうだが、調べてみると少なくとも国際クリケット評議会には参加していない。ホンジュラスエルサルバドルも同様だ。

 それと、寝言を言う人に話しかけてはいけないというのは、日本だけの迷信だと思うし、クリスマスにケンタッキーを食べる風習もそうだ。というか、アフリカ人とフライドチキンってモチーフは別のことを連想させる。スイカと並んで黒人の好物というステレオタイプがあり、そのことでさんざん嘲りの対象となってきた歴史もある。そういうわけでスイカをアフリカ人に送ることは侮辱となるのであり、「フルメタルジャケット」でハートマン軍曹がアフリカ系の新入りに「黒んぼ定食は出さん!」と言っているが、原文では「ここではフライドチキンもスイカも出ないぞ」という趣旨の言葉で、要するに人種的な嫌がらせをしているわけである。著者がここまでわかっているといいのだが。

 さて、製氷機の発明者の孫、「タイム・トゥ・セイ・グッドバイ」、「ラッキードラゴン」という名前の船、韓国のオンラインゲーム、このあたりで舞台の年代の特定をしようとするとずれが出るのだが、とりあえず「百年の孤独」が出てきた時点で放棄した。あれは正確な年代記ではなく、大国と独裁者に翻弄されたラテンアメリカの典型例を示しているのであり、具体的に対応する歴史的事件を探すこともできなくはないが、そこまで重大ではない。そう読むことにした。

 で、そもそもなんで活火山の前に地熱でもない発電所を作ったの、という作中最大の謎を突っ込もうと思ったが、そこについて論じようとすると重大な政治問題になるので長くなる*3。この辺の話がラッキードラゴンと絡んでくるのだろうが、じゃあなんでグアテマラなのか、それは作者にしかわからない。チョコレートが好きだからかな?

 この人の作品は壁に絵を描くとか病人の看護とかそういうモチーフが引き継がれているので、たぶん全体を通して解釈していくべきなのだろう。

 

■式くん「オシリス=ウシャブティのパピルス

 一発ネタだが、古典の翻訳のパロディとしての完成度が非常に高い。発想そのものはエジプト神話の有名なエピソードの翻案でありがちなのだが、再現度が高いので文句を言わせない。

 よって、本文だけで充分力強い。あとがきははっきり言って蛇足である。そもそも原住生物を捕獲して生体実験をするエイリアンってのがコテコテの設定なので、余計なことを言うとすぐに悪い意味でB級になる。だいたい、神々の正体がエイリアンってのはあまりにも使い古されたネタで、むしろパロディの対象だ。この作品のいいところは神話の文体模写であり、逆に言えばそれ以外のところに注意がそれたら負けだ。

 ついでに一つ。このエイリアンの世界では生物は腐敗しないとのことだが、それではいったいどういう生態系が栄えているのか。このあたりがすごく気になった。この設定だけで何か書けるんじゃないか*4

 

■渡邉 清文「美神像の誕生」

 ギリシア神話の世界観から大きく逸脱しておらず、わかっている人が書いたのだという安心感がある。アフロディーテの口が悪いのはご愛敬。清涼剤として機能している。

 不思議なのはアフロディーテの腕がヘファイストス*5の腕になる理屈で、そこがしっかりしているともっといい作品になった気がする。たとえば、今度浮気したら腕を醜くするとか美貌を奪うとか、そういう呪詛の言葉を吐いたみたいな感じでどうだろう*6*7

 

 以上。前半戦終わり。

*1:それも、日常では基本的に見ることはない漢字をだ。

*2:脚本術の本を読むとそんなことが書いてある。

*3:原子力の是非については、日本文化におけるリスク、安全と安心について話すには格好のテーマだ。それに、感覚的なリスクと実際のリスクの乖離については、新型コロナウイルスの騒動とも関係するので、言いたいこともいろいろあるのだが、この作品の感想はまったく関係ない自分語りになるので、端折る。

*4:ハンターやスカベンジャーが存在しない生態系ってのは、例えば繁殖に使えるエネルギー源と物質がめちゃくちゃ豊富で、遺体の分解や捕食よりも手っ取り早いってことなんだろうが、そういう世界ってグレイグーかグリーングーみたいになって、競争がないから知的生命体が発展する余地が少ない気がする。それか、いかに最大のスピードで繁殖するかに知性パラメタを全部振った生き物になるか。ご教授を乞う。

*5:個人的にはヘファイストスには悪い印象がない。チャラい神々しかいない中の生真面目なエンジニアというイメージがある。ああいう神様の中ではなんとなく生きづらそう。

*6:ステュクスに誓った言葉はオリュンポスの神々でさえ覆せないので、この辺のモチーフを絡めるとか。

*7:こういう提案はおこがましい気もするが。