第10回ゲンロンSF創作講座(x月x日)のための覚書

■近況

 新型コロナウイルスの影響で、とうとう講座が行われる日が未定となってしまった。昨今のウイルスの影響はすさまじいものがあり、うちの職場でもテレワークが導入された。自分としては、本当は週に一度というペースで試せればよかったのだが、新型コロナウイルスで非常事態宣言が出たということで、いきなり週に五回の実戦投入だ。偉い人がばたばたする横で、こっちも紙を使わない業務の洗い出しをやっていた。

 この事態にはいろいろと思うことはあるけれど、うがい手洗いマスク、三密を避ける、くらいしかできることはない。自分がこれだけ落ち着いているのは正常性バイアスなのだろうけれど、精神的に消耗したら変な判断をしそうだし、とりあえず毎朝散歩をして業務に入ることにしている。とはいえ、美術館も図書館も市内の大型書店も軒並み閉鎖しているのには、じわじわとダメージが来ている。

 それはさておいて。読書については、最近の作家を改めて読んでいる。あちこちの新人賞受賞作を読んでいると、やっぱりうまいなあと素朴な感想を持つ。別にこの講座の同期をくさすわけではないのだが、新人賞を受賞するにはこのレベルの高い講座でも、さらに頭一つ抜き出さないといけないのだな、と当たり前だが実感する。

 だんだんと疲労感がでてきていて、やっぱり一か月に一作というのはかなり無理やりひねり出しているもので、上達につながるかもしれないが、もっとゆっくりと作品に向き合ったほうがいいという気になっている。

 それとも、単純にやる気をなくし始めているのだろうか。しばらく書きたくないという言い訳のために、講座に合うとか合わないとかそんな言い訳を考え出しているのかもしれない。それだったら、疲れて休みたい、と認めたほうが素直である。

 話を戻すと、ここしばらくノンフィクションを手に取ることが続いていたので、SFを連続して読んでいるのだが、現代の作品をまとめて読むと、よくもまあこんなことを思いついて作品にしたものだというものばかりだ。いったい何を読んだらこんな発想が出てくるんだ。振り返って、自分はインプットを怠って、想像力を貧困にしていないだろうか。

 

■梗概

異教徒の娘とその似姿に恋をした少年スレイマーンの話 – 超・SF作家育成サイト

 この物語のイメージそのものは大学生時代に思い付いたもので、イスラーム世界に対するあこがれからできている。その気持ちの起点は、華美で豪奢な東洋を描いたオリエンタリズムというよりは、東アジアでも欧米でもないもう一つの文化システムに対しての純粋な関心だった。それは欧米の文化と向き合うときの自分の考え方を相対化するためでもあったし、テロとの戦いでいつもイスラームが悪役扱いされることに対する疑問点から、ちょっと調べてみようと思ったのもある。当のイスラーム世界からすれば、極東の人間から妙な同情心を持たれても困惑するとは思うのだけれど、門外漢ながらイスラーム世界の評価はまだまだ低すぎる気がしてならないのだ。

 枠物語を作ることにしたのは、ひとつには「枯木伝」の評価が高かったから調子に乗っているのもあるが、学生という語り手を導入することで、イスラーム世界の細部の描写の不正確さに対する言い訳になるのではないか、と考えたのだ。姑息な手段だが、これによって心置きなく空想に走ることができる。他者の文化をモチーフにすることがそもそも適切かどうかも、メタ的に取り込むことができるかもしれない*1

 講座で確認したいことはいくつかある。一つは、枠物語内部の時代設定を、十字軍時代のイスラエルとかレバノンとかそのあたりにするか、それとも、はるかな未来の同じ場所とするか。そこでは、衛星軌道上に暮らすキリスト教徒と、メッカを中心に地上を支配したムスリムとの対立が描かれる。で、実は未来の世界だったということは作品の後半部分で明かされる。そんな仕掛けはどうだろうか。

 もう一つは、枠物語をどのように設定するかだ。たとえば、内側が十字軍時代で、外側がさっき述べたような未来世界という設定でもいいし、普通にさっき述べたように現代日本の語り手が、自分の片思いと重ねているというのでもいいだろう。ただ、後者を選択した場合、ある種の痛々しさがあるので、それを回避する手段は考えておかないといけない。

 というか、そもそも自分は恋愛描写にこだわる割に実際の駆け引きを書くと下手なのだ。そもそも、もう恋愛描写を中心に話を進めるのはやめたいと思っていたのではなかったか? となると、恋愛以外の枠物語を必要とするはずだ。

 枠物語の外の中を呼応させるのは何だろう? 内側では、人形が一つのモチーフとなっているが、外側でも同じものをテーマにできないだろうか。なにか、人の形をしているもの。外側を未来の日本として、アンドロイドや人工知能。あるいは、政治的なシンボルの存在、それともアイドルと対比するか。あまりに政治的過ぎると話が長くなり、焦点をぼやけないようにするのは大変になるが。

 あとは、枠物語に三つ目の層があるのは、ちょっと多いかもしれない。とはいえ、それは世界観の説明に使える可能性がある。

 

■実作

できることなら、もう一度白夜の下で – 超・SF作家育成サイト

 とりあえず、基本的に梗概段階で提出したラストシーンには基本的に手を入れていないことは自慢したい*2

 さて、以下本題というか課題。

 二万字以内に収めることは失敗した。それだけでなく、自分の作品の欠点を自覚させられる創作だった。基本的に、自分の小説の弱点としてキャラクターが弱いことがある。どこか淡々としてしまう。あるいは、強烈な願望を持っていたとしても、あまりにもまっすぐにゴールに向かっていってしまう。もっとつらい試練を描く必要がある。しかもキャラクターに年齢的な深みがあまりない。これで子どもを描写すれば成功するのかもしれないが*3、それはさておいて、キャラクターが弱いから、当然キャラクターどうしの掛け合いで話を進めていくのも難しくなる。

 今回試みたのは、自分のそうした弱点をSF的な設定でごまかすことだ。つまり、主人公の青年は記憶喪失、というかAIによって自分自身の記憶へのアクセスが制限されており、先輩も人間ではない。舞台となる世界も人工的に再現された東京の一角だ。具体的には御茶ノ水から神保町近辺を想定している。

 そういう作られた世界だから、どこかとぼけた味わいになったとしてもしょうがないのだ、とお茶を濁そうとしている。これが成功しているかどうか、大森氏や同期に尋ねてみたい。

 だが、自分の試みはあまり成功していない気がする。世界の解像度を意図的に落とすというのは、結構難しいことだ。記憶があいまいな世界、というのは前からよく扱ってきたテーマではあるけれど、今作はもっとハードなロジックで攻めるか、はたまたファンタジックな世界にするべきであったのではないか。この講座が通常進行していた頃の、一か月間という猶予は、初稿を書き上げてから細部の矛盾を修正し、次の梗概を考えれば終わってしまう程度の長さで、相当にしんどいのだが、これだけ時間を与えられても、判断しきれないでいる*4

 あと、これは自画自賛ではないのだが、ヒロインの先輩のキャラクターは意図的に少し冷たい感じにした。最初のうちは「子犬が元気をなくしてしっぽを垂らしたような」といった表現を使っていたのだが、着想のもととなったロシアの絵画からは離れていってしまうし、なによりもラストの文章とはうまくつながらない。そんな当たり前のことに何度も読み返すことでやっと気づくことができたのだが、やっぱり時間を置いたとしても、自分で書いた文章にはある種の思い入れと思い込みがあり、辻褄の合わないところを見落としてしまう。

 ついでに、先輩のキャラとは合わないので、御茶ノ水ヴィレッジヴァンガードを訪れるシーンも削除した。学生時代によく立ち寄ったのだが、閉店してしまったとのことで寂しい*5

 恋愛関係の描写は本当に難しい。過去にプライベートでいろいろあったのを、過度に作品に反映したくはないのだが、この講座を通じてもついついやってしまった回がいくつかある。というか、創作に走った理由の一つが「勘弁してくれよ」的な経験を何らかの形で出力しないとやっていけなかったからなのだが、それが今になっても小説にうっかり顔を出してしまうのは、いかがなものか*6

 

■雑感

 この間、エッセイを書きたいとかうそぶいたけれど、ああいうのって、仕事辞めたら日常がますます単調になって、書くことなくなるんじゃないかって思う。

 それと、来期を続けるとしたら、だんだんその確率は下がってきている気がするのだが、全実作を読んでから参加することを考えるだけで気が重い。でも、それをやらないと実際に講座に出席してもあまり面白くないんじゃなかろうか。

 いや、逆に全梗概感想に走ってもいいかもしれない。梗概なら確実に触れられるけれど、実作はそうでもないからだ。講座が盛り上がるのは全実作感想かもしれないし、交流する上で面白いのはそっちなのだけれど、あまりにもしんどい*7

 というか、あまり評価はよくはなかったけれども、実作を創元SF短篇賞に出せばよかったのかな、などとも考える。

 とりあえず、アクションもうまくないし恋愛もうまくない。それならば、どこで勝負しようかな、なんてことをずっと考えている。気力が落ちてきているので、最終実作だけ落した、なんてことにはならないように気を付けたい。

 

 まとまらなくなってきたので以上。

*1:ボルヘスアヴェロエスの探求」にやりたいことが近いのかもしれないが、比較するのは大それたことだし、そもそも読んだのは十年以上前で印象が残っているばかりだ。

*2:他の人が軒並みこれを遵守していたら笑う。

*3:当然のことながら子どもには子どもの難しさがある。

*4:ゼロから書き直すだけの時間と気力がないだけかもしれない。

*5:ちなみに年始に友人と御茶ノ水で食事をする機会があったので、その集合時間の前に足を運んだのだが、残っていたのはほとんどが衣類や雑貨ばかりで、それを友人に話すと、おそらく書籍はとっくに返本していたのだろう、とのことだった。

*6:日記でやれ、とは思う。

*7:このブログでどのくらい講座が盛り上がったかはわからないが……。

近況、つかの間の休養、それからオメガバース

■最近どうしてる?

 COVID-19の影響で小説講座が延期になり、ついでに友人との食事会も中止となった。

延期になった分、次回の実作に磨きをかけているかといえばそうでもなく、ゆっくりゆっくりと作業をしている。つまり単純にペースダウンしたわけである。

 時折、純粋に執筆しない日を作ってみた。そこで感じたのは、何もしないでゆっくりと過ごす夜がこれほど気楽なものであるとは長らく忘れていた、ということだ。小説を書くという作業が自分にこれほど負担をかけていたとは知らなかった。同時に、自分がとても疲れていたこともわかった。ぼんやりと過ごしているうちに、体力が回復していくのが実感された。

 にもかかわらず、自分は文章を書いているときのほうが落ち着く面がある。だから、久しぶりにツイッターではなく匿名ブログで日記を綴ってみたり、自分の失敗談をやっぱり匿名ブログに公開してみたりした。驚いたことに、小規模にバズった記事もあった。

 

■バズった自分の日常

 たくさんの人に読んでもらえたのはうれしかったのと同時に、少し皮肉にも感じた。小説家になりたいと思っているのにもかかわらず、単純な自分語りというか、虚構ではなく事実について書くほうが上手だ、と評価されたと読めなくもないからだ。さらに皮肉なことに、そこに「文章がとても上手ですし、書き手の教養も*1感じさせます。人柄もよさそうですね」というコメントがいくつかついたことだ。褒められてとてもうれしい反面、それは作家にとって必須の資質ではないだろう、とも思われたのだ。

 

■小説を書くのって難しい

 ここに、小説を書くことの難しさがある。小説を書くうえでは、いかに読者を楽しませる嘘をつくかが大切だ。嘘と言って悪ければ、愉快な作り話をどんな風に語って読者を魅了するかが肝心だ。果たして自分にはその能力があるだろうか。一読しただけで理解しやすい、論理的に筋の通った文章を書く力はあるのだろう。しかし、だからと言って小説を書く力があるかどうか、そしてそれが商売になるかどうかは、まったく別の、本当に独立した問題だ。先日、高山羽根子氏がゲンロンSF創作講座の受講生向けに全実作の感想を書いてくださったのだが*2、自分に対するコメントとして、「SF的な設定は一番よくできていたが、キャラクターがそれに比して弱い、ストーリーに奉仕しているだけなのでは?」という趣旨の言葉をいただいた*3。本当に、魅力的な嘘をつくのは難しい。自分はキャラクターを作ることに、本当に苦しんでいる。それに、おそらく恋愛描写もところどころ破綻しているのだろう。自分が得意でないことをテーマにするのは本当にやめよう。もともと、この講座の実作では、大人の恋愛をテーマにするのはやめようと思っていたのだが、今回は含めてしまった。実は時間がなかった中でひねり出したアイディアであったのだが、やはりいい結果にはならなかった。

 アイディアを小説にすることの何が難しいか、それはそのアイディアの説明のために物語を利用してしまわないようにすることを回避しなければならない点だ。主役はあくまでも物語だ。そして、その中核のアイディアもまた新しく考えないといけない。いっそのこと、それを単に説明する文章を書くほうがずっと楽なのではないか、とまで思われてくる。

 

■だからと言ってライターになれるか?

 小説を書くことに(あるいは職場で勤務することに)疲れたときには時折、自分はサイエンスライターかエッセイストのほうが向いているのではないか、と空想することがある。現実的には、サイエンスライターは膨大な書籍を読み、しかも様々な人と対談しなければならない。後者は僕の苦手なことだ。加えて、現職以上に様々な人との折衝、日程の調整もある。考えただけで頭が重くなってくる。エッセイにしたって、目の付け所が凡庸であってはどうしようもない。

 凡庸にならないために、ノンフィクションとか他の人の小説とかを読んでも、どんどんぶっ飛んだアイディアを出す人がいるのがすごい。ぶっ飛んでいるだけでなく、理解可能であるように書かれているのもすごい。

 

オメガバース、女性の感性と僕の男性としての感性と

 そういえば、最近やっとのことでオメガバースについて調べる気になった。時間ができたからかもしれない。概略しか読んでいないが、ここまで複雑なSF的設定を、特にSFのコアなファンでもない人たちが受け入れているのを見て、日本や世界の読者のSFリテラシーがとても高くなってきているように思われてうれしかった*4

 でも、これは完全に僕の問題なのだけれど、女性の感覚で書かれたSF的設定を、素直に読める時期と猛烈に反発してしまう時期が交互に来る。例えば、アルファとオメガのつがいは、女性の喜びがちな*5運命の相手というテーマの変奏なのではないか、と。で、この猛烈な反発な時期には強い嫌悪の情が伴っていたのだけれど、最近になってこれは嫌悪ではなく、畏怖だとわかってきた。女性として生まれなければ書けなかった文章、自分には絶対にアウトプットできない文章、得られない感覚、そこに対する強い尊敬のあまり、自分にはそれができないことを悟って悲しくなるのではないか、と。だが、ここまで質の高いものを書かれてしまっては、とても勝てないし、気にしてもしょうがない。別の軸で勝負するしかない。これも過去の話だが、どうして女性の書いたジェンダーSFばかり評価されて、自分のが読んでもらえないのか、アファーマティブアクションのせいではないか、とふてくされていた時期があるのだが、これも克服した。僕の書くものは、単純に僕がモテないことに対する不満に起因しており*6、そこから人間とは違う生殖手段を描こうとするだけなのだが、多くの女性作家はもっと動機が複雑で、それ故に描かれる世界観も必然的に複雑、プロットも複雑になるのだ。つまり僕の書いたものは単に面白くない。やるならウエルベックくらい極めないとダメだ。素直に負けを認められると、こんなにも気持ちが楽になる。とはいえ、今後もまたへんてこな生殖を書くかもしれないけれどね。楽しいし。

 

■負けることの楽しさと意味

 結局のところ、この講座で自分はこの程度だ、とわかったのが収穫だ。とはいえ、それも悪い経験ではない。大学をはじめとした高等教育の意味というのは、自分よりも圧倒的に頭のいい人間に出会い、十代特有の万能感を打ち砕くにある、と僕は考えているのだけれど、この講座はそれと同じことを僕に対して与えてくれた。この講座の強い競争的な方法が、自分と合っているかどうかはわからなくなっている。来年も参加するかどうかは本当にわからない。イラストを描いている友人が、一日に一枚仕上げることを心掛けていた時期よりも、一枚を丁寧に描くことしてからのほうがうまくなった、と述べているのを見て、一か月に一作というペースが正しいのかどうかも、わからなくなっている。でも、自分と同じくらいの意識の高さを持った人々と顔を直接合わせられることは、それだけで楽しいことだ。小説が書けなくなっても、高いレベルの読書家の友人を得られるというのは、得難い経験だ。

 

■さーて

 大量に買い込んだ本を読むぞー。

 

■いただいたコメントなど

SF創作講座 第8回 梗概感想(30/30)|松山 徳子|note

ゲンロン大森望SF創作講座第四期:第8回実作感想②|遠野よあけ|note

 ありがとうございます。 

 

以上。

*1:前提知識を必要とする内容など一言も書いていないのに、なぜだろう?

*2:ありがとうございます!

*3:優しく穏やかな表現の骨子を抜き出すとこうなります。

*4:村田沙耶香がきちんと評価されているのもその辺が理由だと思う。

*5:要出典

*6: ()

2019年度ゲンロンSF創作講座第9回(2月20日)受講後の感想、それから野菜ジュース御馳走様です、ふたたび。

■また中野伶理氏から野菜ジュースをいただいた。

 ごちそうさまです。今日もおやつにしました。おいしかったです。

 野菜ジュースがあるし、ランチはちょっと脂っぽいものにしようかな、と考えたのだけれど、居酒屋に間借りしていた*1担々麺屋さんが営業を取りやめていた。汁なし担々麵好きなのに。なので、職場から少し離れたところにあるスリランカカレーをいただいてから、おやつに野菜ジュースを飲んだ。

 別に、野菜ジュースで野菜不足の言い訳にするつもりはないし、現にサラダランチも割と好きなのだけれど、例えば山盛りの豆サラダの後に野菜ジュースを飲むほど野菜が好きというわけでもないのだ。

 

■宇露倫氏ともまたお話できてよかった。

 遠野氏を交えて話したのだけれど、最近来られていなかったのは具合が悪かったわけじゃなくて冬の外出が大変なためらしい。安心した。でもよく考えたら、体調がよくないと毎回執筆できないよね。お疲れ様です。

 

■小浜氏からブログが面白いって褒められた。

 ありがとうございます。

 でも、どういうところが面白かったんだろう? 基本的には創作メモと実作の感想しか書いていないので、そのどっちかが良かったのかな。頑張って続けます。

 でも、元来自分の勉強のために始めた全実作感想マラソンをあちこちで喜んでいただけているみたいで、こちらとしても嬉しい。もしかしたら自主提出の件数が減らなかったのは、この活動のおかげか? と空想することもある*2

 

■梗概についていただいたコメント

できることなら、もう一度白夜の下で – 超・SF作家育成サイト

 手ごわい作品を選んでしまったように見受けられる。作品の光景はすっと浮かぶのは確かだが。岩森氏の作品に雰囲気が似ている気がする。けれども、彼の作品くらいの極端さがないと、挿絵のようになってしまう。ここにいたるまでの過程が描かれている必要がある。「作家の禁欲」云々のくだりなどが、実作ではどうなるか。

 梗概の書き方について、もっと考えねばならない。

 自分としては、描写をするように要求されていたので、ほかの方のように具体的な設定を含めなかった。これが敗因だろう。設定は考えていたのだが、そこを聞かれることはなかった。

 梗概段階では、やはりインパクトがないとまずいらしい。今まで、どちらかといえばSF的なロジックがしっかりしていないとダメだということを意識しすぎていたのかも。大学の頃からプレゼンテーションが下手だったのを思い出す。僕はパフォーマンスをやりたいんじゃない、研究内容を知りたかったら文章を読んでくれ! なんもかんも海外の外向的な文化が悪い!*3 って気分だった。懐かしい。

 

■実作についていただいたコメント

君の声は聞こえる。僕の返事は届いただろうか。 – 超・SF作家育成サイト

 講義では触れられず。無念。

 代わりに、大森氏からは休み時間にコメントをいただくことができた。正確には、無理して呼び止めてしまった。いつもながら好意にすがってしまいましてすみません。優しく説明してくれるのでついつい。

 コメントは次の通りであった。

「枯木伝」では女の子の語りのパートも、いつものような堅苦しさがなくてリーダビリティが高かった。また、ですます調の部分も今までに読んだことのないタイプで新鮮であった。けれども、今回の実作は残念ながらそう印象は受けなかった。物語の内容と文体がミスマッチを起こしていた。こういう話を書くのなら、もっと柔らかい文章で語る必要がある。

 これとは別に、揚羽はな氏から、別れ際に「ラストシーンの意味が分からなかった。結局、勇樹と愛華の二人は何を企んでいたのか」という質問をいただいた。その質問をされて最初に思ったのは「やっちまったなあ」ということで、つまり変なシーンを入れてしまったのでオチがわかりにくくなってしまったとわかった。

 帰り際のドタバタで手短にしか説明できなかったので、ここで補っておくと、経緯は次のようになる。信介は愛華に高校時代に告白したが、愛華はその思いに応えるつもりはなかった。だが、明確に断るのがかわいそうだということで、あいまいに濁して卒業した。信介はそのまま初恋をこじらせたまま三十代になってしまった。一方の愛華は、それなりに恋愛経験を積んだが、研究一筋の人生のせいかそれとも別の原因かはわからないが、長続きはしなくて現在独身。信介と再会し、彼が自分のことをまだ恋しているのだと知ったのだが、それを憎からず思い、勇樹の協力を得て付き合うことにした。

 こうやって文章にしてみると、エイリアンとのドタバタの間で、しかも自分の生涯をかけたファーストコンタクトという夢が実現しそうになっている中で、一方的に片思いをしていた信介にかまってやる時間なんてあったはずもなく、ましてや勇樹と一芝居を打つだけのゆとりもなかったはずで、実はプロットとして破綻している。

 そういうわけで、「オチがよくわからなかった」という一言が、プロットの内部にあった大きな問題点に気づくきっかけになった。深く感謝します*4

 

■そういうわけで一年を通して梗概は選ばれずに終わりました。

 別にいいけどね。楽しかったし。

 これだけ書いていればさすがにわかることもあって、単純に自分が間違った方向で勝負をかけていたということだ。今回の実作は講師陣からの評判はよろしくなかったのだが、受講生からの評判は前よりも良くて、要するにできもしないアクションを書こうとしなかったからだろう。それよりも、人間心理や風景描写など、得意なほうを伸ばしていけばいいのである。

 以前、講師の方からおすすめのSFを紹介してもらったときに、アクションシーンが優れたものが多かったので、SFを書くにはこの程度はできないといけない、ということにとらわれていたのだけれど、そうした思い込みからは自由になれそうだ。

 また、SFだからといって物語を完全にロジカルにする必要もないようである。今回の実作は、かなり論理的整合性を意識して執筆したのだけれど、どうも台詞が説明的になりすぎてしまった。確かに自然な会話というよりは議論であり、小説というよりは自分の空想を説明して展開させたものとなってしまっている。このままでは単純な思想の開陳だ。これは、梗概段階で選ばれない原因とも共通している。

 この辺はバランスの問題なのだろうけれども、いっそのこと開き直って自然科学を一切出さない作品を最終課題として提出してみるのも面白いかもわからない。

 ついでに文体の硬さだけれども、これも意識して柔らかめでやってみたい。今書いているブログの文章くらいにはゆるくやりたい。たぶん、僕がキャラクターを描写するとおのずとお人好しになってしまうので、そういう文体が合うのではなかろうか。

 実のところ、こうやって全実作感想を自分の素の感情のまま書き綴ってきたことには大きなメリットがあって、それは難しい言葉で自己防衛せずに気分的なものを素直に出せるようになったことだ。現に、一年近く前のこのブログの文章を見るとその硬さに驚いてしまう。

 それとは全然関係ない話なのだけれど、この時期になってやっとのことでこの講座の雰囲気に慣れてきた気がする。だいたい、転職してもその場に慣れるのに非常に時間がかかるタイプなのだけれど、今回もその例にもれなかったようだ。

 で、同じ人の作品をずっと読んでいると、この人はこういうのがやりたいんだろうなってのが見えてくる。それが見えてくると読んでいて楽しいし、評価しやすくなり、どう直せばよくなるかがわかってくる。

 でも、それは危険と表裏一体で、一般的な読者はそこまで読んでくれない。面白いか、つまらないかだけだ。だから、自分も含めて講師の方のより厳しい意見にもきっちりと耳を傾けないと、そこで進歩がストップしてしまうんじゃないかってのが怖い。

 

■さて、自分の強みとは何だろう?

 

 榛見あきる氏が、どっかで名刺代わりの短編という表現を使っていて、そういうのを目指していきたいな、と思ったのである。

 それは自分の特徴を、興味関心を端的に伝えるものに違いない。そして、それを執筆するためには、自分が何を好きか、をどこかに纏めておく必要がある。講座が終わって時間ができたら、ちょっとした自分語りみたいなものを、意図的にやってみるのもいいかもしれない。

 そうすることで、課題が与えられなくても自分が何を書くといいのかが見えてくるに違いない。

 

■来年?

 このブログでずっと今年で辞めてやるって延々ぼやいていたのだけれど、方向性が見つかったのにここで辞めてしまうのはとてももったいない。一年申し込むたびにボーナスの何割かが吹っ飛ぶが、もうちょっと頑張りたい。幸い、もう一年頑張るとしても、来期の最初の講座は六月に始まる。確か、最終実作の提出が四月ごろで公表が五月。一か月強の気分転換ができるはずだ*5

 それに、この場には慣れてきたのだから、もう少し受講生による講評会に参加できるようにしたい。今年度はいろいろと予定が重なってしまったのだが、来年は全部とは言わないまでも、半分くらいは顔を出したい*6

 結局うまく書けなくて、何年もここに居座って名物おじさんになっているかもわからない。でも、それはそれで楽しい人生な気がする。日本SFに対する、あるいは創作に対するコミットの方法としては、面白いといえば面白い。

 楽しくなけりゃ続かないし、続けたってって意味がないだろう。

 

 以上。

 

 追記。榛見あきる氏の梗概感想を見つけたのでリンクを貼っておく。

第5回梗概感想 1/4|榛見あきる|note

*1:ランチだけバーや居酒屋を借りて営業する形態、最近職場近くでよく見かける。

*2:今期のみんなの意識が高いだけです!

*3:ひどい偏見と八つ当たりだ。謹んでお詫び申し上げます。

*4:これとは少しずれるけれど、講義で「ジェンダーに触れるときに取扱いに慎重になってしまうのは、それをテーマにしないと生きていけないレベルのクリエイターを目の前に見ているから」って趣旨の話があって、「なるほどなあ」と思った。これはジェンダーだけじゃなくて、世代だとか政治的右派と左派とか、できるだけいろんな立場の人から作品に突っ込みを入れてもらうってのは大事で、そういう点でも、こういう講座ってのはいいものだと思うのだ。

*5:アイディア出しを延々やらないといけないのかもしれないが……。

*6:言うだけならタダ。

2019年度ゲンロンSF創作講座第9回「ファースト・コンタクト(最初の接触)」実作の感想、その4。あと、ツイッターのリプライ、滞っています。すみません。

 

 

 

 ああ、そうだ。個性が足りないんだ。

 自分が何が好きかをよく考えて、その分野を丸ごとSFに投入しないといけないんだ。

 単純なハードSFを書こうとするからいけないんだ。よほどのことがない限り、例えば単純なファーストコンタクトは現代においては成立しない。

 求められているのは作家ごとの強烈な個性、この人の作品じゃないとえられない感覚というブランドだ。自分にしか書けないもの、一読して自分が書いたものだと了解させられるだけの、オリジナリティ。

 ゆったりとした気分、これは個性となりうるだろうか。それとも、もっと文体に磨きをかけて、そこで勝負をするべきだろうか。なんであれ、自然科学だけではない、別の情熱を持った分野をどんどんぶち込んで闇鍋を作っていこう。これしかない。

 

 以下本題。全員の実作読み終わった。よく頑張ったぞ自分。

 

■九きゅあ「カオダシたちの神隠し」

 冒頭のゲームは「タブーコード」だろうか。あれ面白いよね。

 この人は、ゲームを小説の中でやりたいのだろうし、そうしたいのなら反対はしない。けれども、個人的にはゲームよりも心理戦をやったほうがいい気もする。「炎鬼 太陽脱出デスゲーム」みたいな。

 作品そのものも素直に読める。

 ただ、やはり原作が偉大過ぎるので、マカオとかラスベガスとか言った現実的な地名が出てくると、違和感は隠し切れない。まったくの別世界でありながら身近な要素もあった、ジブリの世界にどのようにつながっていくかを、読者としてはうまく感じられない。「千と千尋の神隠し」が元ネタになっていることは、やっぱり隠しておいたほうがいい。講評でも出ていたけれど、原作を超えるか全く別の観点から再解釈しないと、読者からの評価は厳しくなるんじゃないだろうか。

 

■宇露 倫「Last Resort

 相変わらずうまいんだよなあ。憎たらしいくらいに。

 アクションだけじゃなくてこういう抒情的なのも書けるんだもの。死後の世界というか、こちらではない別の世界を丁寧に考えたことがない人にしか書けない作風。それと同時に、いかにして親を含めた守護者から肉体的にも精神的にも依存しなくなるか、その庇護下から抜け出すかが、実作での一貫したテーマで、それが話全体を面白くしている。もう一つのテーマは、もっと広い世界を見てやりたいという望みだ。

 ジョンが何者だったのか、これは明確に書かなくて正解だった感じ。読み取れるはず。

 

■藍銅ツバメ「神殺し」

 小学校の頃に戦場ヶ原に行った。で、そこのミュージアムで大百足と蛇の話を展示していたのをはっきりと覚えている。日本の神様って、そういう大きな獣の姿になるよね。三輪山の神様とか、ヤマトタケルが出会ったイノシシだとか。こういう伝説が生きている感じは大好き。

 でも、話そのものは面白いんだけれど、元となっている戦場ヶ原の話は割とメジャーだと思うので、モデルがわからないようにしたほうがいい*1。タイトルも「神殺し」ってのは、いつもと比べて安直な気がする(失礼)。じゃあどうすればいいのかって言われても困るんだけれど。

 

■松山 徳子「遭遇の路」

 宇宙探査船もの。

 少し理屈っぽくて説明的に過ぎるかもしれないが、語り手が人間ではないのでこれもありかもしれない。

 あらすじとしては、知識でしか人間を知らない人工知能が本物に人間の肉体に触れ、それを壊してしまい、心を病んでしまうというユニークなもの。おもしろい。

 ところで、どうして生の人体が浮かんでいたんだろう。それがざっと読んだだけでは読み取れなかった。それに、どうして探査船はマトリョーシカ状になっていたんだろう。絵としてはすごく面白いんだけれど、実際問題、中心に核となる人工知能をセットしておいて、周囲が傷ついたら脱皮していけばそれで済むような気がしないでもない。

 それと、セテウスはテセウス、だよね?*2

 

■揚羽はな「こころの耳」

 児童文学っぽくきれいにまとめられている。左心耳でコミュニケーションをするってのは科学的にはあり得そうにないのだけれど、そんなことはどうでもいい。社会に上層と下層がいて、それが一つのきっかけで逆転するってのもありがちではあるのだけれど、これは王道パターンで表現して正解。王道のいいところは説明を省けることで、この話で一番見せたいのは、ファーストコンタクトそのものというよりも、二人の友人の関係の変化だろう。なので、それ以外のところは多少紋切り型でもいいし、そのほうがかえっていいケースもある。

 たぶんこの人は、科学的な厳密さを求めるよりも、こういう感情に訴えかけるというか、人間関係を軸に話を組み立てていくほうが、目標としているタイプの「リフレッシュできる、明るく楽しい」SFに近づけるはずだし、実際に向かっている。「マイ・ディア・ラーバ」もよかったので、そういう長所を伸ばしていくといいと思う。

 

 以上。

 昨日夜の新幹線で帰ったので眠い。午前半休取ればよかった。

*1:作風から考えて、神話や妖怪伝説が好きなファンがつくはずなので、ファンには元ネタはすぐには見抜かれないほうがいいのでは? わかるようにするんだったらパロディか相対化かが必要だと思う。

*2:こういう重箱の隅を楊枝でほじくるような真似はどうかと思うのだが、僕もパノプティコンをパプティノコンだと思っていた時期があるので……。カタカナは難しい。

2019年度ゲンロンSF創作講座第9回「ファースト・コンタクト(最初の接触)」実作の感想、その3。

 

 

 古川桃流氏から感想をいただいた。ありがとうございます。

 主人公が(三十代にしては?)ナイーブすぎるってのはその通りな気がしてきた。

 でも、一貫していると評価していただいた。うれしい。

 問題は、これをかなり自分の素に近い感覚で書いているってことかなあ……。

 

 以下本題。

 

■よよ「トライポフォビア」

 まずはタイトルから。「トライポフォビア」ってブツブツ恐怖症のことだけれど、作中でエムはそこまで恐怖を感じているようには読み取れなかった。

 次に、梗概を読むと主人公は精神科医ということになっているけれど、あまり医師らしく思えない。精神医学や心理学を習った人間だったら、感情を爆発させようとしたときには、自分に落ち着けと話しかけるなど、何らかのストレス・コーピングで切り抜けようとすると思うのだけれどどうだろう。この設定は破棄したのだろうか。

 あとは、この物語の世界では人間の寿命が延びていて、でも不死に耐えかねて死を選ぶ人間がいる、という設定なのだろうけれど、それが実作だけからでは読み取れなかった。

 最後に、エヴィアンと具体的にどんな心の交流を持てたか、をもっと具体的に描写していたら、もっと良くなると思う。

 

■品川必需「たけのこ太郎」

 投げっぱなしのオチは嫌いじゃない。基本的に変なものを読むのが好きなので。

 だが、梗概とは全然違う内容なのだけれど、いったいどうしてしまったのだろう、と首をかしげているのである。

 あとはギャグが通じる世代じゃない人はどうするか、だなあ。

 

■式くん「ゾンビパニックの論理哲学論考

 タイトルは語り得ぬことについてはなんちゃら、って言いたいだけと違うか。

 冗談はさておき非常に読みやすい。たぶんストーリーが基本的に一直線で分かりやすいからなのだろう。ヒロインも幾分紋切り型なんだがこれは紋切り型にするのが正解のはず。主題はこてこてのサークルクラッシャーと、それによる感染性の意識の消失なんだし。キャラクターを深く掘り下げる意味はあまりない。

 関西弁の語り口がうっとおしいと思う人もいるだろうけれど、これは意識消失後の落差を効果的にする意味がある。それと、もしも関西弁のネイティブだったら、今後も作品に方言を織り交ぜてほしい。方言が使えるってのは、日本語で小説を書く上での大きなアドバンテージで、非常にうらやましいのだ。

 

■岩森 応「コンビニエンス・スタア」

 強烈なB級テイスト。

 個人的には、人間に寄生するエイリアンだとか、ちょっとしたことであっさり全滅しちゃう人類だとか、そういう展開を偏愛していた時期があるので、親近感がある。

 ただ、この話は長すぎる。もっと切り詰めれば二万字以内で収まる。

 この話には次のような流れがある。まず、人間を出荷する生き物の話。つぎに、人間に寄生する生き物の話。それから、人間サイドの話。この三つだ。で、それぞれのサイドで、余計なキャラクターがあるように思われる。たとえば、人間を出荷する側の話では相棒二人で行動しているが、別に一人でもいい。掛け合いで背景を設定するだけの機能しかない。あとはパワハラ気味の上司も、ただ圧力をかけてくるというだけの機能しか有していない。二人して人類に寄生する生き物についてのレクチャーを受ける場面も必要ない。純粋な説明だけの機能しかないうえに、講師が暑苦しいので読む側にもストレスがかかる。もっとざっくり処理できないか。キャラクターを立てるにはもっといい方法がある。

 で、先ほどB級テイストと述べたのにはいい意味と悪い意味があるのだけれど、以下に悪いほうの意味を説明する。まず、いきなり大統領に話しかけて協力を取り付ける展開がやや雑。ただ、B級っぽさを戦略的に演出する上では正解かもしれない。

 それよりも問題となるのは、人間に寄生して人ならざるものを生むというくだり。ホラーとしてはいいのだが、やっぱりSFとしては表現が雑な気がする。それで、気持ち悪いから殺処分するってのもまた、どうなのだろう。そういう描写がいけないわけじゃなくて、もっとパニックというか、社会の反応*1を丁寧に書かないとアウシュヴィッツっぽい。そうなると、隔離政策はゲットーも連想させる。

 過去に行われた蛮行っぽいのを作品に出していけないわけじゃない。ただ、作者からは現実に存在したそれらの類似物を作中に存在させることへのためらいが感じられない。結果として、現代的な人権意識が希薄という意味でのB級テイストが生まれてしまっていて、そこが大きなマイナスになる。

 生まれた子供が自分のものじゃないっていう恐怖も、もっと料理のしかたがあると思う。上手に処理すれば、人間の根源にある、妊娠や出産への不安を表現できるが、このままだと、B級っぽさのせいで男性が女性を寝取られる恐怖だけに堕する恐れがある。

 しかも、殺戮をやめたら人間の子供がちゃんと生まれるよ、ってメッセージを受け取ってからの人類の行動が描かれていない。ここで殺戮をやめるか、それでもやめずに人類が愚かなまま滅ぶか、そこを丁寧にやってほしい。でないと、単に時間がなくなった印象を受けてしまう。

 なんか徹底的に批判してしまって申し訳ないのだが、上手に調理すれば、異質なものへの嫌悪や差別というテーマに正面から取り組んだ良作になると思うので、改稿することをお勧めする。

 

■渡邉 清文「〈死の王・アンブローズ〉雪原の魔界」

 王道ヒロイック・ファンタジー。ひたすらに格好いい。文句なし。

 あえて批判をするとしたら、ファンタジー世界に落下してきたロボットだかナノマシンだかのプログラムを書き換えて遺伝子で繁殖する生命にした、というストーリー、実は現代じゃなくても書ける作品で、十年二十年前の作品でも通ってしまうということか*2

 しかしなあ、現代に作品を書く意味ってのは、自分も問い直さないといけないことだ。

 解決するには、最新の自然科学的知見を入れるか、それとも社会学・人文学の視点を入れるか、ということになるのだろうけれど。要はここ数年の作品を徹底的に読まないといけないってことなんだろうなあ。

 

 以上。京都から帰ってきて疲れたのでおやすみなさい。

*1:中には、気持ち悪くても守ろうとする側や活動家も出てくるんじゃないかな。

*2:人のこと言えない!

2019年度ゲンロンSF創作講座第9回「ファースト・コンタクト(最初の接触)」実作の感想、その2。それと文フリに参加してきたくなってきた。

 文学フリマに参加してみたいなあ。なんてことを、ふと思った。

 というか、講座をやめても何らかの形で創作コミュニティに所属しておきたい。なんでかっていうと、単純にやる気が出てくるし、自分と同時代のものを書く人間が、いったいどんなことを考えつつどんなものをアウトプットしているかってのを、知りたいからだ。もちろん新人賞を追うだけでもある程度できるけれど、実際に顔を知っている人間がアウトプットしている、その実感が欲しいのである。

 最近は、適当に課題が与えられないと、何を書くべきかわからなくなっているんじゃないかという不安に襲われているので、自分にとっての一番大切なテーマはそもそもなんであったのか、を思い出そうとしている。

 

 あと、まだ終わっていないのに結論めいたことをと述べるのはどうかとも思うのだが、SFは論文ではなく小説だという実感は日に日に強くなり、できることなら説明は物語の中に巧みに埋め込まないといけないのであるな、と煩悶している。

 それから、もしかしたら自分の文体は、もう少し力を抜いたものにしたほうが、より多くの人に読んでもらえるんじゃないかって気がしてきた。今度、大森氏に会ったら、「枯木伝」の文体のうち、大学院生の女性の語りと、童話のような語りと、どちらのリーダビリティを評価していただいたのかを、ぜひ尋ねようと思う。

 

 以下本題。

 

■今野あきひろ「火を熾す」

 今までで一番リーダビリティが高い。最初の怒涛のような作品からかけ離れている。だからと言って、エネルギーが枯渇したわけではないし、個性が死んでしまったわけでもない。ただ、少しずつ自分の物語を語るうえで、自分をコントロールする力が身についてきているのだ。

 事実、これってどういう話? かと尋ねれば、プロメテウス神話の変奏だ、とすぐに言える。これは今までになかったことで、今まではかなり要約困難というか、要素を詰め込みすぎていた。一つの物語という器にどれくらい盛ればいいのか、体感を会得しつつあるのだろう。神話的素朴さと雄大さが共存できている。ただ、もう少し狂っていてもいいかも。贅沢な悩みか。

 

■藤 琉「宣誓、なかよくなりたい」

 不幸な先住民との出会いという基本パターンを踏襲している。子どもの小さな悪意から、避けようのない不幸な関係へと落ち込んでいくのもいい。ただ、実際に戦争に流れ込んでいくところや、先頭の場面は描写されているのにもかかわらず、それでは具体的にどのように仲直りしていくのか、がほとんど出てこない。そこがこの作品の面白いところになるはずなのに。つまり、殺しあう以外のコミュニケーションが成り立つためには、何をどのようにするのか、それを考える場面が盛り上がるところではないか。お母さんを守るという誓い以上に、それを現実のものとするところを描写することで、子供の成長も現実感をもって読者に感じられるんじゃないだろうか。

 また、入植者が犯罪者やその家族という設定、別にダメだというわけではないけれど、彼らの粗暴さのエクスキューズとして使っているのではないか、という不安もないではない。

 あとは些事を。一日が18時間と明言されているのに、朝7時という地球での単位がそのまま使えるのだろうか。それと、オニキスの人口が30年で8億人にまで増えたというのは、通常の人口増加にしては、初期入植者がよほど多くないと早すぎるのではないか。

 この作品も、リアリティの解像度を落として、児童文学的というか寓話的にしたほうがいい可能性がある。

 

■甘木 零「鹿鳴館の人魚」

 自分の得意とする分野の中で楽しげにすいすいと泳いでいるような文章だ。

 キャラクターもしっかり立っているし、説明的な挿話も魅力的な語り口で、説明パートにありがちな不自然さがない。言い換えるなら、語りのテクニックがしっかりと生きていて、さっさと続きを読ませてくれ、ってなる。さりげなく間宮林蔵がカワウソの子孫だという設定をさらりと混ぜていて*1、ああ、こういう世界のお話なんだ、ってのが、きっちりと伝わってくる。要するに話を盛り上げつつ情報もきっちりと読者に流し込む、それがうまい。だって、説明に必要なお父さんの話を引き出すのが、主人公のキャラクターを端的に示す行動でしょう、それがうまいんだよ。

 もう一人の主人公の異能も無茶過ぎない範囲だ。これで妖怪退治(?)に話が進んだらきっと盛り上がるだろう。

 無理にケチをつけるとすれば、明治時代の日本人がギリシア語を使いこなせたかな、ってことだろうか。ドイツ語風にして「クリユプトビオゼエ」にしたらもっと明治っぽい雰囲気が出るんじゃないか*2

 

■夢想 真「雨滴」

 読みやすい。これはいい意味と悪い意味がある。いい意味では、文章に変な飾りがなくて、物語に比較的容易に入っていけるということ。悪い意味では、物語がよくあるパターンで珍しくないこと。男性が見知らぬ美しい女性に出会い、別世界に行き、無事に帰ってくる。それから、閉ざされた集落に、人身御供の奇習と、怨霊。要素だけ抜き出すと、本当によくある話なのだ。もちろん、王道だからいけないというわけではない。王道だからこそ感動できるケースもある。けれども、もう一つか二つほど設定か物語にひねりが欲しい。このままだと読後感が、ふーん、帰ってこれてよかったね、で終わる危険がある。

 女性がどうして雨滴になったと感じられたのか、もやや弱い。

 

■古川桃流「シェアさせていただきます

 現代社会をテーマにすることに挑戦している。ただ、説明的に過ぎるんじゃないか。

 炎上を鎮火させていく手段が、SFではなくリアルに寄りすぎている。確かに、クリティカルマスについての話は勉強になるのだけれど、それをSF小説にするには、現実で使われているテクニック以上のものが要求されるはずだ。

 反原発と反化石燃料みたいに、両立しにくそうなもの*3がバズるってのは、定期的にとんでもないものがバズるのを見るので、ありえない話じゃないとは思うのだけれど、それが急に暴徒化するってのは結構無理がある。しかも、それを操っていたのが電波を出す魔法の石*4ってのは、これもかなり無理がある気がする。さらに言うと、統合失調症で苦しんでいる人が、電波攻撃を受けているって訴えることがあるんだけれど、そういう病気の人やちょっと「変な」人が、「電波」を防ぐために頭にアルミホイルをまいているっていう描写が、一昔前にやや好奇のまなざしを伴って流行したような覚えがあって*5、あまり印象がよろしくない。

 話を、石に操られた暴徒ではなくて、この石の正体や、鉱物生命とはどんなコミュニケーションができるだろうか、的な方向にもっていったほうが、面白くできるんじゃなかろうか。インフルエンサーがただの軽薄な人という印象で終わっちゃうし。

 

 以上。

*1:しかも「置いてけ堀」のカワウソかい! 楽しすぎるぞ! どっから思いついたんだ!

*2:クソリプ

*3:絶対にしないとは言わない。

*4:作中ではそんな言い方をしていないけれど、アルミホイルをまいて電波を遮断する描写を見るとそういう印象を受ける。

*5:要出典

2019年度ゲンロンSF創作講座第9回「ファースト・コンタクト(最初の接触)」実作の感想、その1

 

 

  はい。頑張ります。そこまで言ってくれるんだもの。

  実際問題、一日に5作読んで、まあ土日に読めるかどうかはわからないけれど、月曜から水曜までは使えるはずなので、当日には間に合うかな。なんとか。

 

■東京ニトロ「ら・ら・ら・インターネット」

 一息に読んだ。この人は九十年代に小学生として過ごした記憶がはっきり残っているので、今後もこれを武器にしていけばとても強いはず。様々な記憶の細部がよみがえった。

 もちろん、難点もあって、個人のテロリストが小型の核爆弾を持っているっていうリアリティの問題。確かに「虐殺機関」ではサラエボで爆発した核が物語の背景にあるのだけれど、これよりはずっと説得力がある。その理由を考えると、一つはそれがキャラクターの行動原理に深くかかわっているからで、もう一つは世界観の背景として強固に機能しているから。

 物語のテーマが、世界規模の悪意にあらがう小さな子ども、そして子どもが起こす奇跡、なのだけれど、やはり小学校の教室と東京の崩壊にはスケールに差がありすぎて、無理やり結合させている感じは否めない*1。文体をもっと児童文学に寄せてリアリティを少しぼかし、なおかつ奇跡が起きる理由にもう少し説得力を持たせれば、さらによくなる気もする。

 やっぱ超能力と核は属性として強すぎる。パニック映画大好きなら、出したのも納得だけれど。

 

■榛見あきる「無何有の位」

 自分で上げたハードルをやすやすと超えていった。古代インドの伝奇小説なんて読み込む資料多すぎでしょ、一か月じゃ間に合わないんじゃない? って思ってたのに。負けた。西遊記の再解釈も東洋スチームパンクっぽくていい。雰囲気がいい。ブラフマグプタがいきなりゼロの概念を思いつくってのが、ちょっと無理がある気がしないでもないけれど。

 ところで、ツイッターでも言ってたけれど、作中でついた特大の嘘って何だろう? もしも嘘が数論についてでないとしたら、古代インドに株式会社や法人の概念は恐らくなかったってことだろうし*2、あとは猪八戒がしゃべっているのが現代中国語だってことか。

 それと、天使っていう概念の正体がはっきりしない。ある種の共感覚だろうか。あと、天使という概念が、そもそもアブラハムの宗教由来で、アプラサスかガンダルヴァあたりになるんじゃないかなあ。これも作中の嘘かもしれない。

 

■中野 伶理「Di-mensions

 文章のリズムや言葉の選び方が好み。こういう人文系SFは個人的に好き。

 高次元をネタにSFを書くという発想はかなり前からあるし、芸術の観点からもシュールレアリズム以来の伝統がある。だから、今更それをテーマにすると、古く感じてしまうんじゃない? って講師からの指摘を、舞台を過去にすることで乗り越えている。

 完全な成功ではないかもしれない。やっぱり高次元世界の生命体という発想そのものは、SFでは珍しくなくて、古さを全く感じないわけじゃない。けれども、明確に過去の改変を伴わないSFは、歴史改変ものとはまた別の難しさがある。SF要素のある歴史小説として見るのなら、SFマニア受けまではそこまで考えなくてもいいのかも。ターゲットとする読者が違うのだから。

 ところで、何かに憑依されて作品を仕上げるという発想、それこそ自動筆記とか精神分析とかと結びつけたら、もっと面白いものになったかもしれない。余計なお世話ですね。はい。

 

■遠野よあけ「十二所じあみ全集」

 まず、「十二所じあみ」という人名をひねり出した時点で勝っている。実在しない作家というモチーフをSF読者が大好きだってこともよくわかっている。

 しかも、文字が生きているというかなり大胆な発想をしているのだが、それがいかにもありそうな話として感じられる。たぶん作中作や手記の文体にリアリティがあるから、そんな印象を受けるのだろう。

 この人は批評もやっているので、それっぽい文体が書けるし、だからそれによるはったりを利かせるのがうまい。この文体であることないことでっち上げられたらきっと信じちゃう。

 戦前の秘密兵器研究が出てくる必然性って何だろう、って気になりはしたんだけれど、さまざまな文体の使い分けという具体的なテクニックの前には、やっぱりかすんでしまう。この人は、こうした搦手を使いこなし、さらにどの部分がフィクションで、劇中劇をここに挟む必然性は何で、みたいなのをさらに精緻に磨いていったら、かなり強い。

 

金賞予想

 どれもレベルが高くて、もう正直どこかで見たような話を書いてしまった自分としては、今回は点をもぎ取れるとは思っていないのだけど、それはさておいて、金賞に一番近いのは一番難が少ない「Di-mensions」、銀賞が搦手の「十二所じあみ全集」。銅賞は「無何有の位」な気がしているんだけれど、この前は僕が東京ニトロ氏を正当に評価できていなかったことが明らかになったしな、うーん。また外したら笑ってください。

 

 以下自主提出。

 

■稲田一声「きずひとつないせみのぬけがら」

 ドラえもんの道具でこんなのあったよね。

 それはさておき、二次元だったこの世界が改変を受けて三次元になった、みたいなネタをやめたのはよかった。高次元ネタはやっぱりかぶりやすい。

 これは僕が誤読しているのかもしれないけれど、ボーイ・ミーツ・xxxっていうよりも、性同一性障害*3の二人が出会い、自分の「殻」というかクローゼットから抜け出す、っていう物語と重ねられている? だとしたら、単純な「宇宙人がこの世界を創造しました」みたいなオチとは一線を画していて面白い。となると、お父さんの男ならそんなことはしない云々の発言も、古典的ジェンダーの価値観を体現していて、伏線として機能していたのかな。

 とにかくタイトルのイメージが、小学生の夏休みらしくて、とてもいい。

 

 以上。

■追記?

 ワードからコピーしてからこっちに貼り付けたら、なんかフォントが若干違ってしまった。もやもや。

*1:それをつなげるのがインターネットだという話かもしれないが。

*2:ヨーロッパ史に限れば大航海時代にまでしかさかのぼれない。

*3:それか、トランスジェンダー、異性装、そのほかのセクシャルマイノリティのどれに該当するかは作品単体では特定できない。