ゲンロンSF創作講座実作「アーカーシャの遍歴騎士」振り返り

アーカーシャの遍歴騎士 | 超・SF作家育成サイト

■あらすじ

児童ポルノを削除する人工知能が、少女の美を理解させるウイルスに感染する。そのウイルスを作ったのは、かつて18歳以下のヌードを恋人に撮らせた女優・美恵と、人工知能のベースとなった今は亡き人物・憲治であった。人工知能は、その美を理解しつつも、倫理のため苦痛のうちに画像を削除しつづけることを選択する。

 

■自分で読んだ感想

サブプロットがないので長さはこの程度に収まっている。ちょっとした小品。全体的に伊藤計劃From the Nothing, with Love」の影響が濃厚。一本のまっすぐな筋があるだけなのでさっと読める。大きな破綻はない。

ただ結末は普通かな。ありがち。正しさに殉ずるってのは悪くないし、主人公がオリジナルとは違う決断するのもありだと思うのだけれども、SFにはこういうロリコンである自分*1について徹底的に考える作品が結構あるので、そこに肩を並べるのはなかなかに難しい。その水準にはとても至っていない。一万字に満たない作品だからしかたがないとはいえ、もっと意表を突く結末が欲しい。とはいえ、この条件で強く正しいヒーローにするには法に従うしかない。

ちなみに星新一賞に出して落選した*2。確か新人賞にふさわしい新しさはにない。なんかのアンソロジーに入っているならともかく。

あとは細部。「と思われる方々も多いと思われるのだろうが」という箇所は、いったい誰に語り掛けているのか。また、女優である美恵がどうして憲治の人格をもとに検閲官を作り出すことができたのか。そうした技術的細部が曖昧だ。後述の、恋人の写真で人工知能に意識が生まれるというのも、設定と理屈がよくわからない。どうも自分の十代の初恋的なものに対するあこがれが暴走しているようだ。

結末の未練たらたらに心が血を流す箇所も自意識が漏れ出している気がしてならない。

 

■第三者からの感想

梗概:面白くなる可能性はあるが、焦点がずれている。たとえば、AIと元人格の関係があいまい*3インパクトが弱い。自我を持つかどうかもはっきりしない。それと、性別の設定についてはこれで良かっただろうか。

実作:講師からは次の通り。テーマに合わせて絞り込んで短くまとめた印象がある。焦点がぶれるためサブプロットを省いた判断は正しい。1点獲得。なお、小浜氏は「創元SF短編賞は、説明的に過ぎるものと、一人称饒舌体のものは評価しない」と述べているので、一人称は避けたほうがいいかもしれない。最終実作で大コケしたのもそれが理由ではないか。

同期からはもっとハードな作品が書きたいのではないか、講師に寄せ過ぎではないか、と。

 

■まとめ

  • 一人称は避けたほうがいい?
  • もっと意外な結末を! 常識外れの驚きを!
  • 無理して社会派に寄せなくていい。
  • ハードSFのほうがいい。
  • やりたいことをやろう。
  • 十代の初恋的なもの*4に対する未練は断ち切る。

 

■メモ

一人称作品の数:6*5

三人称作品の数:4

ただし、だらだらと感傷的に、饒舌に限りなく一人称に近い三人称もあった。

なので人称よりも文体のほうが問題か。

*1:僕のストライクゾーンはプラスマイナス二十歳です。たぶん。

*2:三次選考以降を後悔するのでそれより前で落ちた。

*3:上で述べた技術的な側面でもそう。

*4:感傷マゾ?

*5:最終実作はこちらにカウント。一番外の枠物語が一人称だからだ。

ゲンロンSF創作講座実作「縮退宇宙」振り返り

■余談

創元SF短編賞の最終選考に受かった当時はテンションが上がりまくっていて、「よーし2か月に1本の短編を書いて1年で本を出すぞー」みたいな空想にとらわれていた。正直言ってしんどいペースだし、そんなことよりもクオリティの高いものを半年や1年に1編ずつきちんと出すのがずっといい。というか、商業誌に載せられるレベルの短編を半年に1度って相当すごい作家だよ。

 

なお、前回に記事には書かなかったが、この振り返りではハッシュタグ#SF創作講座は使わない。個人的な備忘録だし、今受講している生徒の役に立つ情報は少ないだろうからだ。

また、どちらかと言えば否定的意見を多めに扱う。これは自分を鍛えるためのメモだからだ。本当に次回作を書く決心はまだついていないが、傾向はつかんでおきたい。

 

さて今回扱う作品のリンクは次の通り*1

縮退宇宙 | 超・SF作家育成サイト

 

■あらすじ

宇宙飛行士の娘は、自分が人工的に作られた宇宙にとらわれていたことを知る。そこから脱出すると、人工の宇宙を作り出したのは母であったとわかる。母に激昂するも、母は宇宙と娘を救おうとしただけだと知る。母の姿勢に理解を示しながらも、娘は自由になるため外に出る。

 

■自分で読んだ感想

登場人物の名前に困ったからって「失われた時を求めて」から適当に取るのやめなよ。フランス語で「くそったれ」ってどう言うかをひけらかすのもやめなよ……。

あとは、ジルベルトが古典物理学の適用される宇宙に閉じ込められていることに気づく手段がかなりいい加減だ。自分が何となく電子の意志を予測できるからシミュレーション宇宙だ? それにシミュレーション宇宙からの出口がブラックホールだと確信するまでが早すぎる。ハード目の作風なのだからそこは論理展開をしっかりさせるべきだ。第一、量子力学がなければあらゆる原子は電子が原子核に墜落することであっという間に崩壊するし、量子論の証拠であるブラックホールの蒸発くらいならシミュレーションすればいい。ハードなことをやろうとしている割には詰めが甘い。その割にポアンカレ予想だとか宇宙の種数だとかいう用語が説明もなく放り投げられていて不親切だ。一方、宇宙で初めて自由意思が生まれる瞬間も、サイエンスではなく情緒でごまかしている。つまりどんな読者を想定して、どれくらいの難易度を設定するかができていない。宇宙を潰す原理も不明確だ。

また冒頭でいきなり会話が始まるが、母と娘の関係というよりも前提を説明する議論だ。宇宙論に詳しくなければ読んでいてつらいだろう。

あとは母と娘の関係はどうしても形にならない。片方が男性ならともかく、両方が女性なのは難易度が高すぎた。自分の書かない荒っぽい女性を描くという意味では挑戦できた作品だが、概して失敗が多い。母と娘の和解も早すぎる。

 

考えてみれば「ニルヴァーナ守護天使」とも共通する話だが、共通点として両親との関係が良好、少なくとも改善するに着地することが多い。これは善良で穏やかな作品になる一方で、過度に支援的な親だとストーリーを作りにくいし、甘い作品になってしまう。

登場人物の年齢を下げたほうがいいと感じさせる一因な気がする。

 

とはいえ、設定と論理展開を練り直して書き直したい気持ちもある。SF作家なんだから一度くらい宇宙を潰してみたい*2

救い出せそうな熱いシーンもあった。寿命が無限の世界から有限の世界に飛び出すところ、あれは「プランク・ダイヴ」の影響だろう。

ところで、シミュレーションのなかのシミュレーションにいたのではないか、という疑惑について論じるシーンがあるが、ここでは小説の中の小説を扱った「アムネジアの不動点」でやろうとしていることの萌芽が見られる。

 

■第三者からの感想(いろいろな人のコメントを混ぜてます)*3

圧倒的なスケールの大きさと親子喧嘩の小さな話を対比させるのが面白い。

もうちょっと長くてもいいかも。

冒頭の台詞が説明的に過ぎる*4。読者を引き込むには弱い。人数が少ない対話劇においては、やり取りで面白がらせる必要があるが、それに失敗している。それと、フランス語の使用が過剰でうっとうしい。

話を成立させることでいっぱいいっぱいで、つかみがあまりにも弱い。

一般的な読者は下手をすれば三行でやめてしまう。そうした読者に対するサービスを考えてほしい。ついでに、この作品に限ったことではないが、何の話か中盤まで読まないとわからない作品が多い。

 

■まとめ

  • 論理展開をいい加減にしない。時間をかけてプロットを練ること。
  • つかみが大事。
  • 議論だけで話をすすめない。
  • 文理問わず知識のひけらかしはしない。
  • 何の話か冒頭ですぐわかるように。
  • 対話で面白がらせること。
  • スケールが大きいのはいい。
  • 親が優しいがこれでいいのか。

 

以上。

*1:さっきは1週間に1本のペースと書いたけど、やる気があったので今日書いておく。

*2:余談だが、高温になれば生命のクロック数が上がると初めて読んだのはどこだったっけ? そこではクロック数は温度に比例すると書いてあったか、指数関数的だったか、覚えていない。

*3:誰の発言かは過去の記事を参照してください

*4:やっぱり!

僕は再始動するのか? それからゲンロンSF創作講座実作「ニルヴァーナの守護天使」振り返り

■春

気分が落ち着かない。

気温が上がっているせいかもしれない。それとも再び何かを書こうという鬱勃たる熱意が再び持ち上がりつつあるのだろうか。何を書きたいのかまるで思いつかないまま、気持ちだけが空回りをしている。ブチ切れて友人に小説執筆関係の本を全部譲ったのに、そんな浮気な心が兆している。

 

仕事中にぼんやりと考えてしまう。創元SF短編賞は締切が1月10日、ハヤカワSFコンテストは3月31日、今から準備をすれば十分に推敲した作品を送ることができる、と。現実逃避に過ぎないのかもしれない。ただし全く実現性のない空想でもない。創元SF短編賞もゲンロンSF創作講座も、厳しい評価をいただきつつも最終選考には残ったではないか。

 

毎回の応募者数を見ていると500人から600人だ。これは非常に乱暴な概算だが、最終選考に残るのは100人に1人、大賞を射止めるのは1000人に1人というオーダーだ。そして最終選考に何度か残るのは1つの実績だが、それは対象を取ることとは直結しない。散々学んだことだ。しかし再度挑戦する値打ちはある。

 

応募先については次のように考える。

過去に星新一賞にも出したが落選した。純文学の賞に3回出したが、1次選考を通過したのが1回だ。ハヤカワSFコンテストに数百枚の作品を出したが落選した*1。ましてやカクヨムのようにキャッチ―さが必要なのは向いていない。

よって、狙うのは実績のある創元SF短編賞だ。長さは恐らく原稿用紙50枚前後。以前は既定の100枚*2ぎりぎりまで書いていたが、それは気合で書けるだけ書いてページを埋めていたからだ。振り返ってみれば、もっと短くできる作品だった。よって、ゲンロンSF創作講座の50枚を基準としたい。

一方で、最終課題程度の長さを破綻なく書くこともできたので、100枚をちょっと超えるくらいの作品も書いてハヤカワSFコンテストにも出したい*3*4

 

ここまで目標を決めても、本当に新しく作品を書くかどうか、正直大変迷っている。

だが本棚から引っ張り出してきた昔の同人誌を読み返していると、いろいろな人から褒められた記憶がよみがえってくる。作風が幅広いだとか出力があるとか。一度だけ痛烈な批判を受けたからと言って、完全に書くのをやめてしまうのがいいことか、疑い始めている。書きたいけど書けない、書きたいけど書けない、と怨念のようにつぶやいたところで得るものはない。可能性があるのに、自らつぶしていいものか。

 

とはいえ何も考えずに書き始めたくはない。仮にそこに自分が認められたいという欲があるとも、自分を生のまま出せばいいものでもない。

よって、書くかどうかをそもそも決める前に、自分がかつてゲンロンSF創作講座で書いた作品すべてを再読し、率直な感想を記録したい。創元SF短編賞に応募したころは、SFを年に1度か2度しか書いていない。一方で講座の1年間は10作品書いている。これだけ書いた年は今までにない。何かが変わったはずだ。

自分と他人の感想を突き合わせ、欠点の大まかな方向性を見出すことで、今後の方針としたい。一般的なアドバイスしか載っていない書籍よりも役立つはずだ。

気長にやろう。1週間に最低でも1つの短編の感想を書くペースを目標とする。

 

ところで、ひょっとしたら非公開の原稿というか、落選した創元SF短編賞の作品についても書くかもしれないが、これに関しては未定だ。あまり過去の作品を振り返っても、感傷に浸るにはいいかもしれないが、欠点を乗り越えるのにどれくらい役立つかは疑わしい。

 

さて、今回扱う作品のリンクはこちら。

火星の守護天使 | 超・SF作家育成サイト

 

■あらすじ

パキスタン人の外交官が、インドの人工知能にテロから命を救われる。人工知能は、主人公の両親が開発した、現実世界とサイバー世界の関係を大きく変える、電脳成果からの帰還に関する知識を持っていた。主人公らは最終的に火星へと脱出し、死にそうな人工知能も助かる。実は最初から両親が見守っていたのだ。

 

■自分で読んだ感想

梗概段階からは主人公が英王室の末裔であるといった余計な設定を取り除こうとした。それでも作中に設定を盛り込みすぎている。長編ならともかく、ここまで世界情勢について云々しなくてもいい。これこそ禁じ手である世界観の過剰な説明だ*5

そして不慣れなアクションをやろうとしている。今後このジャンルで勝負したくない。思っていたほどひどくはなかったが、アクションのうまい人から見ればツッコミどころ満載だ。以前小浜氏から「全体として説明過多であり、特にアクションにおいてそれが顕著。アニメのコンテ割を口頭で説明しているようだ」と言われた通りで、これはSF創作講座を受講して痛感させられた。

今作で基本的にやりたかったことはAIやアップロードされた人格の連続性、つまるところポストヒューマンものらしい。これは、遠い未来で人類が複数の種に分裂しているというシチュエーションを好む自分の趣味が色濃く出ている。

だが人格の連続性などの設定に甘い個所がいくつかある。結末もすこし無理やりだ。両親が見守っていたというのはセンチメンタルだ。短編なら許されるのかもしれないが、それでももっと最初のうちに伏線を張っておくべきだ。あと、主人公はもう少し若くしたほうがいいのではないか*6

とはいえ拾い上げることのできる設定もなくはない。意識をアップロードした後の肉体の処理だとか、意識をサイバー空間から現実世界にダウンロードした後の、サイバー空間のオリジナルとの共同作業だとか、記憶の並列化だとか、地域によって異なるテクノロジーの得意分野だとか。これらは当時の自分は思いつけたが、今の自分は考えることができるだろうか。

なお、書いたときの感想に「字数制限とアクションという二つの条件を満たそうとした結果、余計なシーンや描写はどんどん削ろう、普段は5枚で書いているところを3枚で済まそう、みたいなことを考えなければならなかったので、勉強にはなった。」とあったので、このあたりから削ることを学び始めたのかも。

 

■第三者からの感想

梗概段階では次のことを言われた。

この世界が成立するまでの歴史・背景のロジックが不足しており、月面を舞台にした理由などに説得力がない。また、行動原理が弱い。もしかしたらとぼけた作品にしたほうが、新境地になるかもしれないが、いいものができるかもしれない*7

実作についてはブログに記載がない。おそらく触れられなかったのだろう。ツイッターでは褒められているコメントがある。引用すると、「淡々としているからいい」「どんでん返しの繰り返し」とのこと。

どうやら自分は、熱意を込めれば込めるほど滑るタイプのようだ。

 

■まとめ

  • 設定は詰めるべきだが、語らずに示そう。
  • アクションはやめておく。
  • 行動原理は明確に。
  • 年齢は比較的若いほうがよさそう。
  • 何でここを舞台にしたか? も理由がいる。

 

以上。

*1:冗長なため。

*2:正確には40字×40行換算で10~25枚だが概算。

*3:希望的観測。

*4:こうやってちょこちょこ注釈を挟むのが「言い訳がましい」と言われる遠因なのかもしれない。

*5:大森望氏曰く「人類100年間の歩みや、「100年後の世界はこうなっている」という説明を作中で披露することは、物語にとってはむしろマイナスになります。」

*6:両親との関係の再考というテーマは何歳でもいいと思う。ただ、この作品みたいな一方的な保護というのはもうちょっと年齢が下がるような。

*7:どこか浮世離れした女性を描いた「枯木伝」では実際に評価されている。

下村智恵理を読んでくれ(それと僕のクソデカ感情)

下村智恵理という作家がいる。

まずは読んでほしい。

特にSF創作講座の面々に。

ここ数年で読んだ小説の中で一番面白かった。

電車を乗り過ごすなんて数年ぶりだ。

 

余りにも面白かったのでレビューも一気に書いてしまった。

以下、カクヨムに投稿したレビューを改変して(ネタバレを減らして)お送りする。

 

■ナクヨムWeb小説コンテスト殺人事件

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SF創作講座の参加者の皆さんにも身に覚えはあるだろうけれども、自己表現したいと思う人には何らかの欠落を抱えた人が多いし*1、創作界隈には対人トラブルが起きがちだ。だからこういうWeb小説を舞台にしたサスペンスを描く余地が生まれる。

 

ここでは、創作クラスタの人間関係のもつれや、創作にすがらないと生きていけない人々の弱さが解像度高く描写されている。射貫くような表現は悪意さえこもっている。破滅に向かう加速に乗ったとき、ページをめくる手は止まらなくなる。

 

読んでいるうちに感じるのは「こういうやついるわ」みたいな既視感だ。あるいは、まるで自分のことを丸裸にされたような不愉快な痛快さだ。小説を書いたり読んだりするのはまるで弱さの証だと指さして笑われるような作品である。登場するのは、女性向けジャンルで執筆していたが、界隈特有の人間関係やルール、トラブルに疲れている碧月夜空。学業の挫折と親の過干渉で引きこもってしまい、閲覧数の伸びない小説を書くことと過去の選考結果だけを自分の支えにしている七尾ユウ。そして、一見すると円満な家庭を築いている元ラノベ作家、儀武一寸。

 

下村智恵理の得意とすることは、社会の暗部や対人トラブルの描写だ。ちょっと考えただけでもこの作品には引きこもり、家庭内暴力、女性の貧困、レイプドラッグなどが扱われている。また、同人誌界隈で起きがちなトラブルも、確かにこういうのをネットで読んだな、ということを連想させる。ネットの荒らしも、匿名による祭りも、嫌がらせも既視感がある。主役だけでなく脇役たちもそれぞれに身勝手で平然と他人から様々なものを奪っていく。相手を見くだし、嘲弄し、面白おかしく消費する。

 

創作者三人も行き過ぎた言葉で傷つけあい、一度ついた嘘で取り返しがつかなくなり、ちょっとした行き違いで破滅へと突き進んでいく。しかし、破滅してなお、何かにすがろうとして読まれる当てのない小説を書き続けてしまう。物書きの業の深さだ。

 

この業の深さを知っているから、SF創作講座の面々に読んでほしい。ただしダメージを受けて落ち込まないように。

 

■東京グレイハッカー

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カクヨムサイバーセキュリティ小説コンテストで星も閲覧数も1位になったが、ビターなエンディングのせいで大賞を逃したと思われる作品。

 

父から貰った開発者ツールでSNSをのぞき見する権限を得た羽原紅子は、その力を善用しようとする。第一話は学年一の美少女にまつわる噂の検証、第二話は児童買春の防止、第三話はいじめの告発がテーマだ。実在する技術に関する知識がしっかりしているので、確かに高校生でも(天才なら)こんなことできそうだというリアリティがある。高校生の天才が高校で起きる身近なトラブルを防ぐため奮闘するのもいい。

 

これは著者がわかってやっていることだが、非常に胸糞の悪いシーンが多い。特に閉鎖的な学校という場でのいじめや売春の描写が秀逸だ。高校生のクソガキどものリアリティが実に優れている。善意から「差別はよくない」と教えたところで、その善意さえ捻じ曲げて他人をからかう手段にしてしまう連中はどこにだっている。

 

善意が悪意に屈する瞬間の胸糞の悪さは研ぎ澄まされており、しばしば読者は限りない無力感に呆然とし、力を失う。しかし、これは前日譚だ。これは顔のないヒーロー、ブギーマン:ザ・フェイスレスが目覚めるきっかけとなる。

 

よって、この作品は時系列的には後の「ブギーマン:ザ・フェイスレス」の前に読むのをおすすめする。

 

ブギーマン:ザ・フェイスレス

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息をつかせぬエンタメ。書店で売っていないことに憤りすら覚える。とにかくこれだけは読んでほしい。社会派アメコミの日本へのローカライズとでも言うべきか*2

 

視覚をあえて封じることで相手の気配を悟る無敵の格闘技という設定がかっこよく、ここ数年で読んだ小説の中で一番面白かった。よく新人作家の作品を手に取って見るのだが、これほど夢中になれるものはめったにお目にかかれない。最後に日常生活に支障が出るくらい小説に面白さを感じたのはいつだろう。

 

社会派でありながらも痛快さを損なわない作劇の腕前が化け物じみている。画面を閉じてとんでもないものを読んでしまったと息を吐く。夢中になったせいで電車は乗り過ごすし牛乳は買い忘れるし大変だった。

 

教師の見ていないところで起きるいじめ、裏通りで行われる暴力、自分よりも弱い者から容赦なく奪うやつら、そして社会の無関心。そんな連中に対して一切妥協せず罰を与える無敵のヒーローは崇高であり、己に課した厳しい倫理には姿勢を正したくなる。奪うこと、奪われること、これは下村智恵理の作品にある一貫したテーマだ。

 

作者は作中の悪にリアリティを与えるために、さぞかし多くの悪について学んだことだろう。いくつかは実際に目の当たりにしてきたのかもしれない。それでもなお人間性に絶望せず、善なるものを追う作者の姿は、ヒーローである憂井道哉と重なって見える。きっと作者は人間というものが好き、少なくとも強い関心がある。

 

硬派なくせに、浮ついた思春期の恋愛模様の描写だってうまい。高嶺の花のヒロイン片瀬怜奈が、どうすればこんなにかわいらしく書けるのか。青春小説、美少女ゲーム、漫画、その他いろいろの猛烈なインプットから生まれたに違いない。ヒロインのピンチは本当に読んでいて早く助けが来ないかともどかしかった。ハッキングでアクションのサポートにまわる「東京グレイハッカーズ」の主役、羽原紅子も頼りになりかっこいい。。

 

作者の勉強の幅の広さは人物描写に限らない。バイク、建築、ハッキング、化学、国際情勢と、確かな知識が物語を強固に支えている。

 

エンターテインメントとしてはまことに扱いにくい素材をいくつも扱っているにもかかわらず、娯楽大作に仕立て上げるこの腕前。アクションシーンも長いのに全くだれない。むしろもっと読ませてくれと求めてしまう。

そしてなによりも、ラストが素晴らしい。

 

僕はこれが商業作品でないことに怒りさえ覚える。「商業ではなかなかできないこと」がコンセプトとはいえ、これが広く読まれないことは、はっきり言って日本のエンタメにとっての損失であり、読者にとっての損失である。

憂井道哉、一生記憶に残るヒーローだった。

 

■蒸奇探偵・闢光

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円谷英二×探偵物語×剣豪小説だ! たぶんSF創作講座のある世代の方には「懐かしい」という印象を与える。それでいて、全く新しい世界を見せてくれる。

 

七十年代の東京。異星人の代理戦争であった第二次世界大戦が終了し、空から墨田に「天樹」が調停のために降り立った。ここは異星人の技術でいびつにテクノロジーを発展させた世界。登場する人や物の一つ一つには必ず何かしらの参照元がある。光の巨人、敵陣に単騎突撃する宇宙戦艦、義手義足で軍属の少年少女、危機と共に駆けつけるバイク乗り*3。そんな祭りのような世界のなかで、異星人とのトラブルを解決する探偵伊瀬新九郎と翻訳者の少女早坂あかりが活躍する。地道で地に足の着いた探偵業と、スーパーロボットを駆使した剣豪アクション、そのどちらも楽しめる非常に贅沢な作品だ。剣豪と言えば、時代小説から抜け出てきたような遊郭の華やかな描写も見逃せないし、現代日本と違った発展を遂げた服飾文化(特に女学校の制服の着こなし)もユニーク。

 

チャプターごとに何か一つは必ずオリジナルがあるものが登場し、時々どこかで聞いたようなセリフが出てきて、それでいて元ネタから一ひねりも二ひねりもされている*4。このひねり具合が絶妙で、まるでおもちゃ箱をひっくり返したかのような作品世界に統一感を与えている。折に触れて登場する実在の和菓子屋や東京の地名もリアリティを与えている。

そして相変わらず総力戦がうまい。つまり登場人物が誰一人欠けても勝てないという状況で敵に立ち向かっていく。また、都市の被害を最小限にし、常に正義のための最善手を諦めない二人は、間違いなく下村智恵理のヒーローの系譜を継いでいる。

 

これは特撮やアニメの優れたパロディ・パスティーシュ小説だ。言い換えるなら日本のオタクのためのご褒美みたいな作品である。読了して思い出したのはメインカルチャーサブカルチャーへの無数の言及を含む、東西分割された日本を舞台とした矢作俊彦の「あ・じゃ・ぱん!」で、これと同じくらい読者には元ネタを探る楽しみがある。もちろん元ネタなどわからなくてもまったく構わない。これは痛快なスーパーロボットが活躍する剣豪小説でもあるのだから。

 

■恋錠の駅で待ち合わせ

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こちらは短編。

 

最高の青春を描いた短編だ。

 

作者が得意なのはサスペンスだ。報われない愛、インモラルな愛、それから終る愛。

そんな彼が清冽な青春小説を描く。まっすぐな恋愛を、抑えきれない好意を、好きという気持ちが昂るあまりすれ違ってしまう十代の恋を。芸風が広い作家・漫画家が最高だと思っているので、作者のことをもっと好きになった。

いや、サスペンスが得意だからこそ、本当に自分のことを好きなのかという宙ぶらりんにされた気持ちが書けるのだろうか。

 

それはさておき、もう彼氏が自分を愛していないんじゃないかという不安と対比させるような、五感で味わえそうなツーリング描写の爽やかさもいい。バイクに興味のなかった自分も思わず免許を取って聖地巡礼したくなった。

山道も、川沿いの道も、風のにおいも、まるで目の当たりにしているかのようだ。

コロナ禍で忘れかけていた旅をする喜びを思いだした。

 

折りに触れて読み返したくなる、愛すべき作品だ。

 

 

■以下、下村智恵理について

彼はかつてスーパーダッシュ文庫でデビューしたが、現在はカクヨムで執筆している。

本人曰く、「なるべく商業にはない方向性でやっていきたい」とのことだ。

例えば、「ブギーマン:ザ・フェイスレス」では最初の敵が在日コリアンなどの複雑な出自で、エンタメとして読んで百パーセントすっきりするというわけではない。あるいは、「蒸奇探偵・闢光」ではふんだんに取り込まれたパロディやオマージュが商業作品ではめったにお目にかかれない密度で織り込まれているし、小説では巨大ロボットは鬼門らしい。さらに、「東京グレイハッカーズ」でのように時々読者の快楽原則に逆らうような展開も見せる。

ただ、商業に乗せるのが難しいからと言って、この作品が読まれないのははっきり言って損失だと思わされる。それだけの力を持っている作家だと思うし、PVが伸びないのが我がことのようにもどかしい。

 

実は彼とは中学高校以来の友人なのだが、最近になってやっとオンラインで公開されている彼の作品を読んだ。彼がオンラインで書き始めた時期は、ちょうど自分の心身の調子がどん底だったので、リアルないじめや暴力の描写に耐えられなかったからだ。

しかし、いま改めて向き合った結果、ここ数年で読んだ小説の中で一番面白かった。

彼の文章には自分の持っていないものがすべてある。力強いプロット、生き生きといて洗練された会話、思わず応援したくなる魅力的なキャラクター、社会問題に対する高い関心、純粋な面白さ。

 

ここで勝手に宣伝して彼から怒られるんじゃないかって思うんだけれども、正直多くの人に彼の作品を読んでくれというメッセージが届いてほしい。正直僕の作品なんてどうでもいいレベルだ。

 

■それから……自分のコンプレックス(読まなくていいです)

正直なところ、彼の小説が読まれてほしいという思いの背景にはいろいろと屈折した思いがある。

「せっかくプロデビューしたのに(僕よりも先に夢をかなえたのに)なぜあえてアマチュアの世界で戦うのか」とか、「たしか君が小説を書き始めたのは僕の影響だったよな」とか、「この小説の登場人物のモデルは高校の時の○○先生だよな」とか、「このシーンは君の生い立ちに関係しているんだろうな」とか、「そんなに悩んでるんだったらどうして自分に相談しないんだよ」とか、「『お前は一生同人作家のままじゃ』と言われた僕の気持ちはどうしてくれる*5」とかそういう一方的な思いがぐつぐつと膨れ上がってくる。要するに嫉妬、敬意、疎外感、親しみ、劣等感、正確には勝手に理解者ぶっている感情*6などがないまぜになった感情で、これがいわゆるクソデカ感情というやつなのかといろいろ思うのである。

だからレビューを書いてすっきりさせる必要があった。

 

下村智恵理、次回作も楽しみにしている。

*1:自分がそうだからって他人もそうだって思うなよ。

*2:詳しくないのだが……。

*3:ウルトラセブン宇宙戦艦ヤマト鋼の錬金術師シュピーゲル・シリーズ?)、仮面ライダーに似ているけれども、すべて少しずつ違う。

*4:あるページにはどうも見てもバルタン星人なキャラクターがカフェのマスターをやっている。

*5:まだ根に持ってるのかーい!

*6:これを彼氏面というのかな? 向こうからしたらうっとうしいだろうなー。

いまさらだけれども、「愛と友情を失い、異国の物語から慰めを得ようとした語り部の話」の背景について

■少し昔語りと言い訳をさせてほしい。

2020年8月、第4回ゲンロンSF新人賞の選考が行われた。

ここで自分は残念ながら落選し、評価も今一つだったのだが、当時は屈辱感が強くて何をやりたかったのかについて十分に説明できなかった。

よって、ここに自分はどういう意図でこの作品を書き、私小説としてはどのような背景があったかについて記録する。2年近く前の作品なので関心を持っている方も少ないだろうが、SF創作講座というキーワードで検索する方がいらっしゃるかもしれないし、読んでくださった奇特な方への説明責任(?)を果たしたい。また、当時いろいろ言われたコメントへの、遅まきながらの反論もある。

 

■あらすじ

school.genron.co.jp

【枠物語・外】

高良秀治はいまだに小説家になる夢を捨てきれない男である。今でも大学時代にサークルで文学論を戦わせたことを懐かしがっている。そこで、大学のサークル仲間の井場隆らと久しぶりに飲もうとしたがコロナ禍で果たせない。

アラビアンナイト風の小説を書きながら当時を想起していると、疎遠になった中山瑛理の近況を知る。彼女は小説家にはならず、女性向けメディアのライターになっていた。君の小説を読みたいと高良は中山に告げる。さらには当時の井場のハラスメントを防げなかったことを謝罪する。「もしかしたら井場の中傷と、僕のフォロー不足のせいで君は小説家になる夢をあきらめたのではないか」と。だが、中山からは高良が小説だけが崇高だと思って他の表現を見くだしているのだと喝破される。また、高良からかばってもらうほど自分は弱くないとも告げられる。中山との関係を壊してしまったことに失望しながら、高良は井場との縁を切る。しかし井場からは嘲笑をもって迎えられる。

【枠物語・内】

イスマーイールは大商人の息子である。彼の父は寛大で、異教徒であるキリスト教の巡礼者であっても親切にもてなす。兄のウマルはそれが気に入らない。ある日やってきた巡礼たちの娘ヒルデガルトと言葉は通じないながらも交流を持ち、人形を贈られる。巡礼者は去るが、ウマルは財布がなくなったのを彼らのせいではないかと疑う。

翌日からイスマーイールは恋の病に倒れる。長い時を経て巡礼者が再び屋敷を訪れるとイスマーイールは目を覚まし、改宗してでもヒルデガルトと結婚したいという。だが、父に激怒され人形を焼き捨てるよう命じられる。イスマーイールは一度それに従うも、火の中に手を突っ込んで人形を救い出す。父はその愛と異文化を理解しようとする熱意を見て、商人よりも学者向きではないかと考える。財布についても冤罪だった。ヒルデガルトとは別れねばならなかったが、心は通じ合い、将来再会することが暗示される。

 

■背景その1

在学中に所属していた文学サークルのバックナンバーを手に取ったとき、人形に関する連作があるのを見つけた。読んでみるととても面白かったので、自分も人形をモチーフにした作品を書きたくなった。ちょうどイスラームキリスト教偶像崇拝の禁止というテーマが気になっていたため、歴史小説を書こうと思い立った。これを思いついたのは2006年から07年のことだから、実は本作は構想してから10年以上経過している。

自分にとって小説を書くとはどういうことかをテーマにしようとしたとき、枠物語の内側として長くあたためてきたネタを使うときが来たように感じられた。

また、詩を書くのにもハマっていた。実はこれを七五調の恋愛詩にしようかとも思っていた。枠物語・メタフィクションという表現を選ばなかったら、僕はこの小説を詩という形にしていたのかもしれない。

 

■背景その2

実はこの小説は自己批判を目的とした側面がある。というのも、実際に井場や中山のような立場の後輩が当時の文学サークルにいたのだ。

この小説についていただいたコメントで、井場を指して、「スネ夫がそのまま大人になったような人物が出てきて不自然だ」とか、「いかにも作家が考えた評論家みたいだ」とか、「こんなやつを登場させる作者はヤバいやつなんじゃないか」とか、いろいろ言われたけれども、彼の発言はともかく、中山に取った態度はかなり実在のモデルを参考にしている。

当時そいつはかなりの読書量を誇り、自分のおおよそ倍の速度で本を読んでいた*1。付き合いの狭い自分にとっては自分のレベルを凌駕する読書家を目の当たりにしたのは初めてだったので、彼との会話は正直とても刺激になった。当時、自分よりもレベルの高い人間と付き合って自分を高めたいという少し歪んだ向上心を抱えていたためか、最初のうちは楽しい付き合いだった。

ただ、彼の女性嫌悪は甚だしかった。「こういうことを言う女はブス」とか「それは女のナルシシズムだ」とか、とにかく色々で、それは本人を前にしても変わらず、いつ居酒屋で隣の席とのトラブルに巻き込まれるかとひやひやしていた*2*3

余りにも激しい嫌悪だったので、僕は最初のうちそれはある種の冗談だとしか思えなかった。本気なんじゃないかとうすうす疑い始めたとしても、ここまでの強い悪意を目の当たりにしたことがなかったので、どうやって対処するべきか理解できなかった。現実として受け入れられず、現実を否認するような態度だった。この件については恥じている。

その場では「まあまあ、そのあたりにしておきなさい」と雰囲気を悪くしない程度にたしなめはしたものの、今にして思えば、もう少し強い調子で説教すべきであったと反省している。当時の自分にはサークルの先輩としての自覚が足りなかった。

だから昨秋で彼をモデルにした井場と決別したのは、自分の中でけじめをつけようという思いが出ていたのだろう。ただ、自分の中の罪悪感をこれで消したとしても、彼の言葉で傷ついた相手がいたことは変えられない*4

同じように、中山のモデルも実在する。とはいえ、本人に迷惑がかかるかもしれないので、名前は伏せる。

最近は全然ツイッターでも様子を見ていないが、数年前に見た時は元気でやっているらしく、イラストレーターをしつつ子育て日記を書いていた。そして、作中で中山からも説教されたのは、自分が女性に対して対等に立とうするのが苦手で、ついつい相手にすがろうとするか、逆に守ろうとするかしてしまう姿勢に対する自己批判というかツッコミだ。自分よりも弱い立場の人をかばおうとするのは悪くないが、相手がそれを必要としていなければ単なるおせっかいでしかなく、うっとうしい。

自分のこうした人間関係における稚拙さがそのまま作品に出てしまったから、作品そのものの評価が低かった面もあるのだろう。

 

■最後に

パラパラと読み返してみれば、確かに全体的に言い訳がましい小説になってしまっている。

1年間作品を書き続けてきたことに対する最終レポートという気持ちもあったのだろうが、これは小説であってレポートではない。

過去との決別をテーマにした結果、書いている方としては満足してしまったのだが、そういう結論ありきだったため、主人公が大きく変わったわけではないとみなされたらしい。井場との絶縁ができる、つまり優柔不断なやつから決断力のある人物にキャラが変化したと僕は思ったのだが、これだけでは不十分なようだ。

 

さて、ここ2年弱*5、小説は一文字たりとも書いていない。数千文字のエッセイなら書いたが、それもほんの数度だ。まったくの虚構を頭の中から取り出す方法を忘れかけている。そして、ほんの数千文字書いただけで褒められている、小説を書き始めた友人のことをうらやましく思っている。

さらに、一度小説家としてビューしながらも、あえてアマチュアの世界で書く友人に対しても(次の記事で書く)、屈折した思いを抱いている。

 

本当に虚構を作り上げたいのか、自分の日常の愚痴を聞いてほしいのか、単にバズって自己顕示欲を満たしたいのか、どうなのだろうと考えつつ過ごしている。

*1:失われた時を求めて」を読み始めたのは彼のほうが後だったが追い越された。

*2:そんな彼にも恋人がいたのが不思議なのだけれども、女性嫌悪を持つことと女性と性関係を持つことはまた独立したことらしいので、実は矛盾しないそうだ。

*3:その舌鋒は男性にも向けられることもあった。作中でも「ブスでもいいから女の子から好意を寄せられている自分のことが大好きなナルシスト」というセリフで引用した。

*4:困ったことに彼はすごくいい文章を書く。感傷的なものもメタフィクション的なのも。評論も本当に上手だった。今にして思えば、自分がメタフィクションを用いたのは彼に対して対抗するつもりもあったからなのかもしれない。

*5:書き上げたのは7月下旬だったはず。

AIのべりすとで読んでもいない/読めない/実在しない本の感想を書く。そして、訪れなかった未来の日記を書く。

 

ロシア文学の感想文

ai-novel.com

AIのべりすとは、かなり広いジャンルの文章を収めているらしい。ファンタジーも、歴史小説も、官能小説さえ最初の数行を与えれば、読者の好むと思われる属性*1に応じてそれらしい展開を出してくる。では、読書レビューのようなことはできるのだろうか。自分が以前戯れに書いたロシア文学の感想を入れると次のようになる。なお、見やすいように見出しは太字し、適宜改行した。

ドストエフスキーカラマーゾフの兄弟

神童と呼ばれた男が、自分より能力のある弟と妹を見下すようになるまでを描く物語。兄弟の家庭環境や人間関係の描写が秀逸で、それが物語の核心である。兄弟間の嫉妬や憎悪、劣等感といったものが丁寧に描かれていて、その感情の動きを追うだけでも読み応えがある。

この作品を読むと、僕は自分がいかに家族に恵まれているかということがわかる。父が早く亡くなり母一人で育ててくれたこと、兄姉全員が優秀だったこと、そして両親がともに敬虔なキリスト教徒であったことなどから、自分は幸せ者であると感じることができるのだ。そういう意味でこの作品は僕のバイブルであり、人生における大事なことをたくさん教えてくれる。

 

フョードル・ミハイロヴィチ・ドストエフスキー罪と罰

主人公が善良であることは初めのうちこそ読者にもわかるものの、中盤以降はほとんど説明されない。だから、これは誰の話なのかわからないまま読み進めなくてはならない。主人公スヴィドリガイロフは、他人の幸福を妬みながら生きてきた男である。彼の犯した罪を一つ一つ丹念に追っていくことで、作者はこの小説を書きあげたのだ。

この小説を読んでいる間中、僕はずっと恐ろしい気持ちでいた。なぜこんなひどいことが人間にできるのか。どうしてこのような人間の本性が平然とさらされているのか。悪はどこまでも底知れずおぞましいものである。そう感じずにはいられなかった。

 

ドストエフスキー「悪霊」「白痴」

ドストエフスキーといえばやはり『罪と罰』だろう。この本を読み終わったとき、あなたは間違いなく人生の真実を理解したはずだ。そして、それを言葉にして誰かに伝えることができたなら、そのとき初めてあなたの物語は完結する。

僕はもうすぐ終わる。これから先の人生には何もない。

 

ドストエフスキー「地下生活者の手記」

ドストエフスキーは、自分の人生をこのように振り返ったことがあるだろうか? 彼はただひたすら苦しみ抜いた。なぜこれほど苦しまねばならないのか。そんな疑問を持ちながらも、彼には立ち止まることも逃げることもできなった。この世で最も悲惨な経験をした男は、それでもなお生にしがみつく。

ドストエフスキーは、決してあきらめなかった。最後の最後まであがき続けた。僕もまた、そうありたいと思う。

 

ドストエフスキーカラマーゾフの兄弟

僕にとって一番印象深い作品はこれだ。父を尊敬し、父と娘の関係に憧れていた。しかし、父は娘を愛さなかった。それはなぜか。愛せなかったからである。

愛せない理由はなんだったのだろうか。あるいは、愛さない理由があったのだろうか。僕にはわからないし、知ろうとすらしなかった。だが、おそらくは父のほうに何か問題があったのだろうと推測することはできる。

僕は今、愛

なるほど、元の文章のように自分語りと本の感想が入り混じった文章は出力される。内容もロシア文学中心だということはわかっているらしい。しかし、どういうわけかドストエフスキーのループに落ち込んでおり、しかも書名と内容が正しくは一致しない。内容をわかってるんだかわかっていないんだか怪しい。さらに、自分の幾分歪んだ意識*2はそこまで反映されていない。

これで読書感想文を書くのはやめたほうがよさそうである。

史書の感想文

なら、シリーズものの歴史書は同だろう。何冊か「興亡の世界史」シリーズを読んだ。そのときのおおよその感想は次の通り。

林俊雄「興亡の世界史 スキタイと匈奴 遊牧の文明」読了。文献と考古学的証拠のバランスがいい。匈奴の工芸品が本当にスキタイのものそっくりで、かなり古い時代から遊牧の文化圏が広がっていたとわかる。十進法による軍の編成など、後世のモンゴルやトルコに引き継がれたところも多い。このあたりは西欧や中国の歴史だけを学んでいては得られない知見だ。

 

原聖「興亡の世界史 ケルトの水脈」読了。考古学的にケルト文明の跡をたどるだけでなく、いわゆるケルト的なものとされる「異教」のイメージはどこから来たのかを分析している。例えば「ケルト的」とされる伝承が、本当にキリスト教以前までさかのぼれるのかについては、疑わしいものもある。大陸の住人のはずのケルトが、いかにしてアイルランドウェールズ民族意識の根拠とされたかについても触れ、ドルイドのイメージが男性から女性に変わった過程も記される。

 

森谷公俊「興亡の世界史 アレクサンドロスの征服と神話」読了。よくよく考えてみれば、アレクサンドロス大王の父親について何も知らなかったし、ペルシアを征服してから何をしたかがほとんど意識になかった。自分は征服者の事績よりもやはり文化面に関心があるようだ。しかし、こうした意識していない知識の空白は、世界史のあちこちにあるのだろう(後でカルタゴやヴァンダルの歴史について調べておこう)。アレクサンドロス大王没後のヘレニズム諸国についてもしっかり触れられていたのも良い。

 

森安孝夫「興亡の世界史 シルクロード唐帝国読了。唐の羈縻政策アラル海サマルカンドカンダハル、カーブルまで及んでいたことまでは知らなかった。清帝国よりも西まで支配していたわけだ。ほかにも北周が四川まで支配していたことなどいかに頭の中の地図がいい加減だったかを再確認した。

ところで、岸辺成雄によれば、唐の合奏の楽器編成は日本雅楽の管弦八種よりも豊富であり、しかも、笙のほかに和声を奏でる楽器があったので、和声的な大管弦楽が奏でられていたらしい。同じ時代のヨーロッパの教会音楽はは単旋律であったことを考えると、きわめて先進的である。

出力結果はこうなった。

そして、唐代ではさらに管楽器が加わり、唐代の音楽は多楽章制をとっていたのではないか、という。これは非常に興味深い話である。

 

「興亡の世界史 中世ヨーロッパ世界の暗黒時代」読了。ルネサンス以前のヨーロッパで何が起こったのかを知るには良い本だと思う。特に宗教戦争については詳しく述べられており、十字軍遠征の意味なども理解できる。しかし、宗教戦争の時代はあまりにも長く続きすぎ、史料的にも断片的で不充分であった。そのため、十字軍についての記述の多くは伝説の域を出るものではなかった。本書によってそのあたりの疑問がある程度氷解したのは良かったと思う。

 

森谷公俊「興亡の世界史 イスラム帝国の滅亡とオスマン・トルコの栄光」読了。イスラム帝国の衰退の原因が明らかにされるとともに、オスマン帝国の最盛期の姿が描かれる。著者自身の史観による記述のため、かなり主観が入っているものの、それでもなお説得力のある内容になっている。また、オスマン帝国が周辺国を次々と併呑していった過程において、キリスト教徒がどのような役割を果たしたかも詳細に述べられている。

 

森谷公俊「興亡の世界史 アジアの激動とユーラシアの創造」読了。中国の南北朝時代に関する記述が多いのは当然だが、モンゴル高原を中心とする中央アジアの歴史にも深く踏み込んでいる。また、明代の倭寇の活動についても詳述されている。ただし、全体としては東アジアの視点からの叙述であり、日本のことはほとんど出てこない。この点、やや残念な感じもする。

 

「興亡の世界史 モンゴル帝国の光と影」読了。チンギスハン一代の話ではなく、元寇からフビライハーンに至る歴史の流れを追っている。その中で、明の支配体制がいかに脆弱なものでしかなかったかを示すエピソードが多く出てくるのは興味深かった。ただ、史実と異なる部分も多く、おそらく想像で書かれたものも多いと思われるため、鵜呑みにするべきではないだろう。

 

森谷公俊「興亡の世界史 中国近代の胎動と西欧列強の衝撃」読了。辛亥革命前後から現代にいたる流れをたどっている。このあたりは、あまり新しい史料も入ってこないせいか、かなり淡々とした内容となっているが、清朝末期における反骨精神旺盛な知識人たちの姿が印象的だった。こういう人たちがいたからこそ、中華民国は成立したと言えるかもしれない。

さて、これから何をするか。とりあえず、新年を迎えたら、しばらくは読書三昧かな。

正月休みは結局、旅行はしなかった。まあ、もともと行く

AIは「興亡の世界史」というシリーズを読んでいるのだ、ということは理解しているようだ。書物の無いようにかなり踏み込み、読んだときにどんな気分になったかもしっかり書かれている。元の文章の癖の再現度がかなり高い。

しかしながら、ここに出てくる書物は実在しない。そこをいい加減とみるか、バベル的な架空の書物の目録めいていて面白いとみるか。しかも、森谷公俊氏は実在の人物であり、現に「興亡の世界史」シリーズの一冊を著している。名前が出たのは入力データにあったからだろうが、感想がもっともらしいので虚構と現実の境が少し揺らぐ。


架空の書物の感想(1)

では、ゲンロンSF創作講座の作品の感想文を入力したら、どんな出力が出てくるだろうか。インプットはこちらを使用した。

■10010式「211x年のメタガール」
 とてもきれいにまとまった短篇だと感じた。作者と登場人物の掛け合いなんてドタバタSF以来やりつくされたのではないかという気がしていたが、普段こういうしっとりしたものを読まないせいか、新鮮に感じられた。ただし、ストーリーの結論は「物語が変わらない存在であるからこそ、どんどん変化してしまう私たちが救われるのだ」というもので、王道ではあるけれど、すごく新しいSF的な発想というわけではない。でも、こういうタイプの作品はとても需要があると思う。気持ちがいい。

 

■甘木 零「老婆アリス」
 梗概とは少し違った話になっているけれど、実作のほうが何がしたいかはわかりやすい(僕はあまり読解力がある方ではないので梗概の段階では「数年後、訓練を終えたノベルは木星行きの船に雇われる。雇い主はコーラであった」というオチの意味がよくわからなかった)。意識を持たない(と主張する)存在も興味深い。
 しかしながら、ラストのコーラとカタルが融合してしまう部分、きれいかもしれないけれど、ノベルがそれに対して腹を立てなかった理由があいまいな気がする。それと、アイスキュロス(だっけ?)の死因をネタにするのなら、文体を全般的にもっとペダンティックにする方がいい気がする。他に古典に対する言及が全然なかったので、ちょっと取ってつけたようになっている。

 

■榛見 あきる「ブルーだけでは足りなくて」
 タイトルはフランス映画から採ったのだろうか。
 スタイリッシュさとばかばかしさが適度に共存しているし、ネットのライヴ感も百年後における身体論・所有観も面白い。ただし、お嬢様学校のイメージが古いし、「おしとやかに黄色い歓声」という矛盾した表現や、「社交界」に「ホワイトカラー」というルビを振るところとか、細かいところだが気になってしまう。
 それと、一番やりたかったのは百年後の社会学を描写することではなくて、幼児体形の高校生を公衆の面前で作者の好みの色の下着姿にしたり、その小さな乳房を友人に揉ませたりすることだったのではないか、という疑いが濃厚である。作者の願望はもう少し背景に退かせた方がいい。

アウトプットは次の通りだった。

■黒猫堂「夢見る少女の恋心」
冒頭の情景描写がすごくいい。こういう書き方ができるのはすごい。ただ、主人公の行動原理がよくわからない。そして、読者への呼びかけが多いわりには、説明不足のように思う。


■上岡龍也「星屑たちの宴」

冒頭からしてすごく面白くて、これは期待できると思ったのだが……。結末まで読んでみてもやっぱりよくわかんない。特にヒロインの行動。作者さんはどういう意図でこの終わりにしたのか。


■八坂頼子「天球館にて」
これまた冒頭が素敵だった。しかし、中盤以降がどうにもこうにも。この人の作品は全部そうなんだけど、文章力が高すぎて逆に読みにくい。


■新海岳彦「月下の一群」
梗概は、ちょっと意味不明だったが、本文を読んでみると、なるほどそういうことなのかと納得できた。終盤の展開は鮮やかだと思う。ただ、設定の説明が長いので、そこだけもうすこし削ってもいいかも。


■新海岳彦「銀河鉄道の夜
僕は『銀河鉄道の夜』を読んだことがないので、比較はできないけど、これはこれでいいんじゃないかと思う。たぶん、自分が読んだことのない作品の梗概を読むというのは、小説を書くうえで参考になるだろう。


日下三蔵「春眠暁を覚えず」
タイトルがいい! 冒頭の語り口といい、最後のシーンといい、素晴らしい。
ただ、肝心の内容については、全体的にいまいちピンと来なかった。「春の陽気にうとうとしているうちに夜になった」「みんなでお花見をしていると、いつの間にか寝ていた」というようなことを延々と繰り返しているだけで、あまりドラマチックではない。あと、作中人物の描写が浅いように感じる。

誰も書いていない、この世に存在しない小説の感想が出てきた。逆に、この感想文から元となった小説を書きたくなってくる*3

しかも、驚くべきことに、SFクラスタであることを認識しているのか、日下三蔵氏の名前が出力された。他の名前についても調べてみたが、八坂頼子はライトノベル「這いよれ! ニャル子さん」の登場人物らしい。ますます虚構と現実が(以下略)。

 

架空の書物の感想(2)

もう一度試してみよう。

■藤田 青「Punk Punk Punk」

 洋楽の歴史に関しては無知なので、評価をするのが難しい。

 お話としてみると、周囲の人たちが主人公に概して好意的で、もうちょっと与えられる試練を厳しくしてもいいんじゃないか、って感じられた。

 それと、これは僕が原典となる映画「ブラザーズ・オブ・ザ・ヘッド」を観たことがないからだと思うのだけれど、やっぱり結合双生児を出す必然性が、弱く思われた。あと、実作ではアンドロイドだということは明記していないけれど、双子の名前がバリーとトムなのは、彼らの作り手が映画を知っていたことを暗示するし、だから面白い偶然だと言って「ザ・バンバン」と名づけるシーンの意味が弱まってしまう気がする。むしろ、ただの偶然の一致ではなく、作為だということがわかるシーンとして使えるんじゃないか。

 

■式さん「NO SUMOKING DIMENSION」

 果てしなくしょうもない*2。

 SFの歴史については詳しくないけれど、該博な知識とこじつけの暴力で、こういうネタを大真面目にやっていた時期というのが確かに存在していたような気はするし、オカルトをジョークとして楽しめる読者は笑いながら謎の感動を覚えるのだけれど、かなり読者を選ぶうえに、わざわざ十の天界を巡るのを事細かに描写したのは、多分「神曲」をなぞることが自己目的化したのではないかとも感じられる。

 

■武見 倉森「死人のカンカンノウ」

 作中の、声の大きいやつがいると、明文化されたルールに乏しいコミュニティが崩壊するってのはその通りで、身に覚えがある。

 で、作品の個人的に感じられた問題点は、次の通り。アンドウが自ら死体になって演じたい理由が自分の中ではうまくつながらなかった。そのうえ、改作された「らくだ」を演じる理由もよくわからなかった。なぜ改作したのか、なぜ死んだのか、そこがもっと有機的に繋がったらさらに良くなると思う。たぶん描写がちょっと不足気味なのだ。

 ところで、これは古典落語だからいいのかもしれないけれど、「屑屋」ってのは何の注釈もなしに使っても大丈夫な言葉なんだっけ?

結果を示すとこうなる。

 ■三石様「Bible Gateway
聖書に関する物語。
聖書の知識がない人間にとっては、なんとも不思議な気分になる作品だった。
聖書について知っている人間は、そこに書かれていることが実際にあったことなのか、あるいは単なる比喩表現に過ぎないものなのか、判別できないという気持ちになった。それと、この作品の中で言及される、いわゆる「新約聖書」「旧約聖典」と呼ばれるものは、実は写本によって内容が異なっていて、しかもそれがどこから来たものかわからないという話には驚いた。

 

■K.T.様「The Dystopia of Evil and Reincarn
ations」
悪魔と転生の物語。
人間の想像力というのは、本当に無限であるらしい。
この作品を読んでいると、悪魔の存在を信じてしまいそうになる。そして同時に、そんなものがこの世にいるはずはない、とも思えてくる。でもそれは、人間が想像できる範囲を超えているからこその感情であって、その限界を超える存在がもし実在するとしたなら、それはどんな形をとるだろう……などと考えたりしていた。


■藤浪智之「THE HIGH PRIESTESS」
ハイプリエステスの話。
この作品は、原典となった小説がすごく長いらしくて、僕は読んでいないのだが、とにかく、ハイプリーストがいかにして生まれたか、ということが書かれているようだ。
この作品では、彼女の生まれ変わりが、自分が前世の罪を償うために、罪のない人々を助けている、というような筋書きになっているようだったが、これってどうなのだろうか。たとえば、彼女が生まれ変わったのが、そもそも自分の犯した罪を悔い改めるためだとしたら、彼女は何のためにそれをしていることになるんだろう。
それに、仮に、誰かを救うために生まれ変わるのだとすると、それはいつまで続くのだろう? 永遠に終わらない贖罪なんてあるんだろうか? *1:この手の作品は、原典を読まずに書くのは難しい。大抵の場合、原典を読むよりも面白くなるからだ。
*2:これをギャグだと思って笑える人がいたらすごい。
神曲』の地獄篇は、キリスト教的な世界観をもとに書かれた作品であることは間違いありません。しかし、その内容は非常にバラエティに富んでいます。キリスト教の教義に背くような設定もあるのです。今回はその中でも代表的なものを紹介しましょう。
1 煉獄(れんごく)
2 大焦熱地獄 3 小焦熱地獄 4 等活地獄 5黒縄地獄 6 衆合地獄 7 叫喚地獄 8 大叫喚地獄 9 大大叫喚地獄 10 阿鼻地獄 11 無間地獄 12 大叫喚地獄の百千万倍 13 大焦熱地獄の一億倍 14 大大

最後は百科事典的になってしまったが、SFというか創作クラスタ内での読みあい・感想共有的な文章がうまく再現されている。

日記

試みに、日記も入力してみた。入力部分は私的なものなので省くが、アウトプットもかなりそれっぽくなった。語り手がおじさんっぽいのは、僕の文体が古いからだろうか。

七月五日(火)

外出自粛生活が始まってもう一ヶ月になるが、家の中でできる運動というのがなかなかない。自分はわりあい歩く方だと思うのだが、散歩なんてとんでもない話である。そこで、NHKの番組「きょうの健康」を参考にしてストレッチを始めてみた。これがかなり効果がありそうなので記録しておくことにする。

まずは床に寝転んで両脚を伸ばしたまま腰を上げる体操をする。これは腰の筋肉を伸ばすだけでなく、股関節周辺の筋トレにもなるらしい。次に仰向けになって片膝を立て、そのまま頭の方まで足を上げ下げする。これもまた股関節まわりの筋力アップになる。さらに、両手両足を広げてベッドの上に横たわる。このとき、爪先は天井に向けて真っ直ぐ伸ばす。そして、上半身だけ起こさずにゆっくりと横に回転させる。この時、手と足のつま先が一直線になるように意識するとよいという。これを三十回ほど繰り返す。

これらの動作によって体幹インナーマッスルが鍛えられる。特に腹直筋下部と大腿四頭筋がよく発達するそうだ。ちなみに、テレビの中ではトレーナー役の男性タレントが実際に行っているのを見たが、彼は五十代くらいだった。自分にはまだ無理そうである。

 

七月六日(水)

久しぶりに外に出たら、近所のスーパーで豚肉の特売をやっていた。いつもなら買い溜めするところだが、ここで誘惑に負けてはいけない。そのかわりに、豆腐屋で木綿豆腐を一丁買った。家で食べる用だ。これでしばらくは自制できそうな気がしてきた。

しかし、その帰りに本屋を覗いて料理の本を物色したら我慢しきれなくなってしまい、結局豚バラ肉を買ってしまった。明日からしばらく毎日肉を食えるぞ!

 

七月八日(木)

昨日の続き。

一日中家にこもって過ごすことになると、どうしても昼飯が面倒になってしまう。何か簡単に作れないかと思ったところ、冷凍庫にあったスパゲティが目に入った。確かミートソースを作るために大量に茹でたのである。それで、レトルトのパスタソースを使ってスパゲッティを作って食べた。

それから、昼食は麺類ばかり食べている。もちろん、生クリームなしのペペロンチーノとかカルボナーラといった簡単かつ単純なメニューだ。今日は素麺を食った。あとは冷や麦もどきの焼きそばを作った。いずれも麺類は飽きることがない。

 

七月九日(金)

今日は暑い中、午前中に二時間ウォーキングをした。おかげで汗びっしょりになった。これからは週に一回は運動するようにしよう。

午後は図書館に行って読書。

 

七月十日(土)

今日は一日雨が降っていた。涼しくなっていいことなのかもしれないが、なんとなく気分が滅入る。こういうときは、さっぱりしたものが食いたくなる。そういうわけで、夕方はざるうどんを食った。つゆの味が濃かったので、めんつゆは薄めにした。

 

七月十一日(日)

朝から快晴だったので、午前と午後の二回に分けて、近くの公園を歩いた。ここのところずっと引き籠もり状態だったので、少しは外に出た方がいいだろうと考えたのだ。このあたりには大きな池があって、蓮の花が咲いているはずだが、残念ながら開花時期ではなかったようだ。

散歩を終えて帰宅した後、夕食として親子丼と味噌汁を食べた。最近は米やみそ汁を自分で作ることが多い。やはり、自分が一番好きなのが和食だからだろうか。

 

七月十二日(月)

夜中に目が覚めて、小腹が減ったので、インスタントラーメンを作ることに。作り方はいたってシンプル。お湯を沸かして麺を入れるだけである。ただ、普通のカップではなく、袋入りの太めのやつである。これをスープの粉と一緒に鍋に入れて、適当に煮込むだけでできるのである。

ところが、出来上がったのを食べようとしたとき、ふと思いついて冷蔵庫の中からキムチを取り出して入れた。辛さが加わってなかなか美味いではないか。そういえば、少し前に「蒙古タンメン」という激辛のカップ麺が発売されたことがあった。あれもいいなあ。今度買おうかな。

 

七月十三日(火)

今日は外出自粛解除第一日目ということで、近所のコンビニへ買い物に行った。もちろんマスク着用の上である。店内ではレジに並ぶ前に入口付近のアルコール消毒を行った。店員さんたちも心得たもので、「ご協力お願いします」と言いつつ手早く済ませてくれた。

その後、弁当コーナーへ行き、唐揚げとおにぎり、それにお茶を買った。ついでに雑誌コーナーで立ち読みをしていると、隣で同じく立ち読みをしていた年配の女性が話しかけてきた。

「あら、あなたも自粛していたんですね。私も同じです。ところで、最近どうですか?」

彼女は隣の区の保健所で事務員を務めているらしい。私の住んでいる区とはだいぶ離れているのだが、それでも同じ都内なのだから、感染者数が増えれば嫌でも目に入ってくる。

「ええまあ……。そちらこそ大変ですね」

私が答えると、彼女も苦笑いを浮かべていた。

その後は世間話に花を咲かせた。私はもっぱら聞き役に徹していたが、それなりに楽しいひと時であった。

 

七月十四日(水)

今日の昼食はカレーライスだった。ただし、レトルトのパックを使ったものではなく、一から作ったものである。材料は玉ねぎ、人参、ジャガイモ、豚肉など。これらを切って炒めてから、市販のルーを入れて溶かし、さらにご飯を加えて混ぜ合わせた。最後に塩コショウをして味を整えたら完成だ。

これだけだと寂しいので、サラダも用意した。ドレッシングは手作りした。オリーブオイルとレモン果汁、酢を混ぜ合わせて作るものだ。本当は和風のものを作ろうと思ったのだが、うまくできなかったのだ。

久しぶりに料理をしたせいか、とてもおいしく感じられた。これなら毎日だって作れるぞ! しかし、そんなことをすると栄養のバランスが崩れてしまうし、何より面倒くさい。やはり、たまに食べるくらいがちょうどいいな。

 

七月十五日(木)

昨日の日記にも書いたように、今日は久々に外出した。例によってマスクを着用した上でだが、久々なのでなんだか妙な気分になった。

行きつけの古本屋に入り、漫画を一冊購入してから店を後にする。その足でスーパーに立ち寄り、夕食の材料を買い込んだ。そして、家に帰ってから夕食を作り始める。

メニューは肉じゃが、ほうれん草のおひたし、冷奴、豆腐とわかめの味噌汁といったところ。どれも簡単なものだが、自分で作っただけあって、そこそこおいしいと思う。

 

七月十六日(金)

今日は図書館に行ってきた。借りていた本を返却した後、新たに三冊ほど本を借りた。そのうちの二冊は小説であり、もう一冊はエッセイ集である。どちらも読んだことのない作品だったので楽しみだ。残りの一つは科学関係の専門書であるが、これもじっくりと読もうと思っている。

昼飯は近くの中華料理店でラーメンを食べた。以前、この店に来たときに食べたチャーシューメンが忘れられず、また食べようと思っていたのだ。相変わらず濃厚なスープであったが、今回はニンニクを入れずに注文したので、前回よりもさっぱりとした味わいになっていた。

帰宅後は読書に没頭したが、途中で飽きてしまったので、テレビをつけてドラマを見始めた。この時間帯の連続ドラマは初めて見るものだったので面白かった。

 

七月十七日(土)

朝食はトーストにハムエッグ、コーヒーというシンプルなものだったが、パンが焼きたてだったので非常にうまかった。食後にはヨーグルトを食べて口の中をサッパリさせる。

午前中はずっと読書をしていたが、午後になって少し眠くなったので、ソファの上で横になる。そのまま眠りこけてしまい、目が覚めたときには夕方近くなっていた。

その後は近所のレンタルビデオショップへ行き、映画を一本借りてきた。タイトルは『ジョーカー』。昨年に公開された作品で、アメコミ原作となっている。

早速、夕食後のデザート代わりに鑑賞を開始する。内容は簡単に言うと、悪徳警官の主人公が汚職事件をきっかけに、刑務所に収容されている凶悪犯たちを次々と解放していき、最後はギャングのボスと対決するというもの。

ストーリーは単純明快なだけに、ストーリー展開には目新しさはない。ただ、役者の演技や演出は非常によくできており、最後まで引き込まれて一気に見入ってしまった。特に終盤のアクションシーンは圧巻である。

 

七月十八日(日)

今日は朝から雨模様だった。そのため、一日家の中で過ごしたのだが、昼食の後片付けをしている最中に、誤って食器用洗剤の容器を倒して割ってしまう。幸いにして中身はほとんど残っていなかったので怪我はなかったが、後始末をする羽目になってしまった。

その後、掃除機をかけ、風呂場とトイレの排水溝のゴミを取り除いた。それだけでかなりの時間がかかってしまった。

夕飯は餃子とレバニラ炒め、それにキュウリとワカメの酢の物を作った。

 

七月十九日(月)

今日も仕事である。とはいえ、普段通りの出勤ではなく、半ドンとなった。

お昼前には仕事を切り上げ、病院へと向かう。目的は予防接種を受けることだ。

受付で問診票を書いてから診察室へ入り、医師から説明を受ける。

「ではまず注射の方から始めましょうか」

そう言って、看護師さんに指示を出す。

特に面白いわけでもない。笑いどころもない。しかし、いかにも日記めいている。

短いがもうひとつ例を出す。

昼飯:豚キムチ定食(大盛り)@ラーメン二郎・亀戸店 夜飯:冷やしたぬきそば@蕎麦屋 銭湯帰りに雨の中を歩いているうちに空腹感が増してきたため、近所の店で晩飯をとることにした。豚キムチ定食というメニューに惹かれて入ったのだが、これがまた期待外れだった。豚肉もキムチも炒め方が甘いのか、歯ごたえのないゴムのような食感である。麺の方は茹ですぎだ。この店には二度と来ないと思う。

その後は帰宅して寝る前に少しだけ原稿を書いた。しかしあまり進まなかった。

明日は仕事なので早く寝ようと思っていたのだが、眠気がさっぱりやってこないので執筆を続ける。二時間ほど書いてようやく寝床についたのは午前零時過ぎであった。

本日の体重:71.1kg

(朝食前計測)

起床後、いつものように体重測定を行う。ここ数日、朝起きるたびに「もう七〇キロ台後半になっているのではないか」という不安に襲われるのだが、結果は六九.八キロと変わっていない。

朝のルーティンワークをこなしてから家を出ようとするが、玄関を出たところで小雨が降り始めた。傘を持ってきていないので、仕方なくコンビニまで走ってビニール傘を買うことに。

電車に乗っている間にも雨脚が強くなってくる。昨日から関東地方は梅雨入りしたそうで、これからしばらく天気が悪い日が続くらしい。

会社に到着する頃にはすっかり濡れ鼠になっていた。靴下やズボンの裾はもちろんのこと、鞄の中に入れていた書類類も

ところで、別のデータを出力したところ、僕が中年の妻帯者という設定になり、妻がいきなり色っぽいことを言い出したので幾分慌てた。日付が十日(月)から十一日(水)のようにかみ合わなかったのも、幾分ホラーじみている。

総評

かなり自然な日本語を出力できることがわかる。以前のスパムで見られたワードサラダのことを考えると、隔世の感がある。しかし、出力を続けるとさすがに因果関係や事実関係で矛盾が見られる。

一方で、適宜修正してやればそれらしい文章を出力し続けることは可能だ。もう十年近くすれば、AIにプロットを与えればそれなりの小説を書ける時代が来てもおかしくない。AIに表現や展開を提案させることは、もっと早くから受け入れられそうだ。

しかし、小説の面白さ、つまりプロットのさじ加減や表現の妙を選ぶのが最後には人間だという時代は、もう少しだけ長く続くだろう。

新しい道具を併用しつつ、自分の言葉を選ぶ営みそのものは恐らくは変わらない。それが商業に乗るかどうかは別として、人の人が書いたものを読みたいという欲望は残るはずだ。

 

*1:詳細には言及しないが、「なんでそんなことまで知ってるんだよ!」というのもありました。

*2:つまり執筆者の個性。

*3:誰かSF創作講座でやってみてください。

AIノベリストがすごい。

ai-novel.com

 

自分の文章を入力したら、続きを出力してくれた。

ちなみにこの文章は、もう十年弱ほど前に書いたものだ。

たぶんこういう文章は、もう書けなくなっている。

黒い蝶が視界を横切った。薄汚れた漆喰の壁を背景に、水に落としたインクのように飛翔の跡を残していく。涙のように垂れ下がった羽をはためかせ、つがいを求めて天を行く。言葉もなく、思考もない。鋭い日差しに貫かれて、明暗が心にざわめきを残すが、呼び止める間もなく飛び去ってしまう。

僕はこの瞬間の名付けえない気持ちをいつまでも忘れないようにしようとする。言葉にして、手帳に書きつけて、手元に置こうとする。けれど、その印象を僕は保持できない。僕の記憶はあまりにも頼りない。すぐに失われてしまうし、失われたことさえ忘れてしまう。だから僕は嘆かないし、何も感じない。

以下が続き。

夏の到来とともに、僕は自分の心の在り様について考えることが多くなった。

それは自分が生きているのか死んでいるのか、という問いに似ている。あるいは、自分とは何か、と問うことにも似ている。

夏になると、いつも同じことを考える。

僕はこうして呼吸をして、歩いて、話して、物を食べて、寝ている。生きてるんだなあと実感する。そうすると、自分の身体のあちこちに継ぎ目があることに気付く。それは意識しなければ分からないほど些細なもので、人によっては気が付かないかもしれない。でも、確かにそこにはあるのだ。

例えば僕の指先。爪の先から小指に向かって、小さな糸のような線が走っている。これは腱だ。腕を動かすための筋肉を繋ぐ腱。そして肘へと伸びる。肘関節を通って手首まで。

手を開く。掌には五本の指がついている。親指から順に第一関節、第二関節、第三関節……。

こうして一本ずつ確かめるように指を動かしていくと、最後に自分の手の甲に行き着く。そこにはやはり細い線がある。まるで蜘蛛の巣みたいだと感じることもある。

「それは何?」

隣を歩く女の子が訊ねてくる。

彼女は高校生になってから知り合った友達で、名前は確か……、そうだ、綾乃といった。

「腱だよ」

答えながら、彼女の顔を見る。

綾乃は不思議そうな顔をしている。無理もないと思う。突然こんなことを言い出したら、誰だって困惑するだろう。

「これがどうかしたの?」

「うん……」

僕は少し考えて、言葉を紡ぐ。

「こうして指や手を動かしてみるとさ、何か変なものを感じるんだよ。なんていうか、こう……」

僕は右手を上げて、その手を見つめる。

「ここだけ違う生き物になってるような感じっていうのかな? 他のところとは全然違って、すごく不安定なものになってるみたいな感覚があってさ。それが嫌なんだよね」

自分でも何を言っているのかよく分からなかったけど、とにかくそんなふうに思うことがあるということを彼女に説明しようとした。しかし、上手くいかない。結局、僕が感じていることは何一つ伝えられないままだった。

「ふーん……」

綾乃はどこか上の空の様子で返事をする。どうせまた興味がないとか言うんだろうと思っていたのだが、彼女は予想に反して真面目な表情を浮かべていた。

「それじゃあ、あたしの手を見てみなさいよ」

言って、綾乃は自分の左手を差し出してくる。僕は言われるままに彼女の手を取る。

綾乃の手は大きくて温かい。ほっそりとした白い指が僕の手に絡みつく。

「ほら、やっぱり」

綾乃は微笑む。

「あなたも同じじゃない」

「えっ……」

僕は驚いて彼女の手から視線を上げる。綾乃の顔を見た。

「あなたの手だって、普通の人の手とは違うわ。私と同じで、指の先から足の先まで全部バラバラのものなの。だけど、ちゃんと繋がってる。だから大丈夫よ」

そう言って、綾乃は僕の手をぎゅっと握った。

「もし不安なら、私が一緒にいてあげるから」

綾乃の言葉は、僕を安心させると同時に胸の奥底に潜んでいた何かを刺激する。

それは夏の陽射しのように眩しくて、温かくて、そして切ない痛みを伴っていた。

気が付くと、僕は泣いていた

涙を流すなんていつ以来だろうかと考える。思い出せないくらい昔のことだった。

僕はただ黙って涙を流し続けた。

やがて涙が止まると、僕は彼女と別れて家に帰った。

その日の夜、僕は夢を見た。

夢の中の風景はよく覚えている。そこは教室だった。机や椅子が整然と並び、黒板の前に教壇がある。ありふれた学校の光景だ

一度しか試していないが、元の文章が感傷的だということを、理解しているように思われる。

朝起きて試してみた結果だ。文章をゼロから編み出す喜びはないが、思いがけない結果を見て楽しむことはできる。

以上。