ですます。

 この文章は常体で書いているのだけれど、敬体のほうがよかったかな、と考えることもある。しかし、普段の小説と日記を書くときの文体がこれなので、慣れているのだ。

 

 当然、手紙を書くときにはですます体で書く。下手をすれば、家族に対してもそうしていることがある。なんというか、そうすると込み入ったことを書くときに非常にやりやすい。

 

 どうしてこんな風に感じているのかを考えたのだが、僕は、誰にあててということもなく書いているときには常体で、具体的な相手を思い浮かべて書くときには敬体を用いているようだ。日記には、誰かに言及するときには特に敬称をつけないが、ここでは、つけたほうがいい気がする。○○氏、以下敬称略、と書くのも、なんだかそっけない。

 

 しかし、前の記事でイーガン、と呼び捨てにしているのは事実だ。国内外の人名にかかわらず、敬称をつけるのが筋だとは思う。けれども、たとえば夏目漱石の「三四郎」みたいに著者名と題を書くこともあり、どうも表記が一定しない。存命かどうか、あるいは直接顔を合わせたかどうか、でもこの感覚は揺らぐ気がする。

 

 何が言いたいのかあいまいになってしまったが、敬称を忘れていたとしたら、特に悪意はないので、忘れていてごめんなさい、訂正します、ということでご寛恕いただきたいのである(ここも、お許しください、としたくなる)。