第8回ゲンロンSF創作講座(1月16日)のための覚書、ついでに「忘れえぬ女」などについて

 最近気づいたんだけれど、「SF創作講座 ブログ」と検索しても、このブログにたどり着かない。別にアクセス数を稼ぐためにやっているわけではないので全然構わないのだけれど、たとえば来シーズンの受講生が情報を求めてきたときに、何らかの助けになるといいな、と思うので、今回から記事のタイトルをマイナーチェンジする。ついでに、「SF創作講座」のカテゴリにもする。

 それと、皆勤賞が一人減ってしまった。ただ、皆勤賞よりも現実に点数を稼いでいるかのほうが、ずっと大事な問題なのだ。一回落としたくらいが何だというのだろう。

 

■梗概

君の声は聞こえるけれど、君には僕の声が聞こえない – 超・SF作家育成サイト

 前回の記事で予定していた内容とは大幅に変えた。一人称で一人の生涯を語ることの難しさもあるのだけれど、それよりもピンとくるストーリーが浮かんだからだ。

 アピール文で説明したとおり、これは三人の人物が片思いをしていて、それが円環になっている構造だ。かつて、学生の頃に四人でこの円環を構成している*1話を書いた覚えがあるのだけれど、五十枚に収めるには登場人物をひとり削る必要があるためにこうなった。一応、ナボコフ「賜物」の挿話に似たシチュエーションがあるけれど、それはメインのあらすじとは関係ない*2

 それはさておき、今回はあまり背景のSF設定を綿密に詰めていない。なんとも言えず真っ直ぐな、ファーストコンタクトものである。エイリアンからメッセージが届きました、さてどうしましょう、というタイプの話だ。しかも、それはあくまでも背景であって、メインのプロットは三人の登場人物の恋愛のもつれである。すごくシンプルだ。

 この講座でいろいろとコメントをいただいて思うのは、もちろんコメントなしのスルーも含めてだが、求められているのはSFの設定が合理的かというよりも、小説としての完成度がどうかであって、余程のツッコミどころがない限り、科学的な正確性はかなりゆるくてもかまわない、ということだ。僕らは設定ではなく物語を書かなければいけないのだ。メインディッシュは科学的事実ではない。ストーリーだ。そこを間違えてはいけない。

 そういうわけで、しばらくは舞台設定を考えてから、ここに住んでいるのはどんな人たちだろう、と考えるのではなく、ストーリーやキャラクターを決定したうえで、こんな物語に絡むのはどういうSF的舞台というソースだろう、という順に組み立てていこうと思う。

 

■実作

枯木伝 – 超・SF作家育成サイト

 一人称で書くと、手癖が出てくるのであまりよろしくない、と先月言った舌の根も乾かぬうちに、一人称の語りを含めてしまった。それも女性の。この試みがどういうふうに受け止められるかはわからない。ただ、そうせざるを得なかった事情がある。枠物語の外側と内側をしっかりと結びつけるためだ。

 最初に執筆したのは、枠物語の内側の部分、すなわち古文を現代語訳した体裁の部分だ。普段は使わないですます体を使うことはちょっと刺激になった。である体であっても、読者に物語を読んでもらう以上、ある程度情報が伝わりやすいように配慮するのだが、その配慮するポイントや量が変化するのを感じた。より丁寧に、そして登場人物や読者の心情に寄り添うようになったのである。

 そのうえで、僕は改めて枠物語の外側の部分を執筆した。つまり、大学院生の女性の話だ。こういうタイプの女性、文学部の大学院にはたまにいる気がするのだけれど、どうだろう。それはともかく、なんでこのようなキャラクター設定を必要としたのかというと、三人称の物語には聴き手が必要だと感じられたためだ。

 もともとは、この三人称の部分は、枠物語の外側の人物が発見する手記だとか、そんな設定にするつもりだった。ただ、感想交換会にて、いくらなんでも院生が旅行先で埋もれていた資料を発見するのは無理がある、と指摘され、深くうなずいたのだ。で、この物語を語る人物と聞く人物の両方がいるとしたらそれはどんな人物で、なぜそんな話をすることになったのか、を考えた。言い換えるなら、枠物語の外側と内側が、有機的に連携しなければならなかったのである。

 で、出てきた全体の構造が、「院生の女の子が、従兄から昔の片思いの気持ちを込められた、古典もどきの小説を読まされる羽目になる」というものだ。これだけだと従兄がただの変な人なので、片思いの気持ちがこもっているかどうかは明確にしないことにした。つまり、神経過敏になった主人公の思い込みの可能性を残してある。

 クリエイターを目指す人の、ちょっと痛々しい側面を自己批判する目的も、ないではない。

 問題は、校正があまりできなかったことで、これは外側の物語が具体的にどんなものになるかを考えるのに時間を取られたためだ。友人と年末にボドゲ三昧をしていたからではない。念のため。

 

■次の梗概

「20世紀までに作られた絵画・美術作品」のうちから一点を選び、文字で描写し、そのシーンをラストとして書いてください。 – 超・SF作家育成サイト

 あ、これ好きなやつだ。

 ただ、作品の選択には細心の注意が必要だ。もしも被ったら、前回のときみたいに評価が下がるんじゃないだろうか。場面転換がテーマのときに、パラレルワールドへの移動というネタが重なったとき、互いに巻き添えを食って梗概が選ばれなかったことがある。

 で、どの作品を選ぶかだ。自分は割と美術館に足を運ぶのが好きなほうなので、好きな画家は何人もいる。候補が多すぎて困ってしまうほどだ。

 たとえば、ヌードは外す、という条件を付けたらどうだろう。自分は、異性愛の男性なので、女性の身体はとても美しい、と素直に感じるのだけれど、その感じたときの気持ちを文章にしたときに、面白いものにできるかどうかは自信がない。なんというか、極めて凡庸で退屈になりそうなのだ。それに、僕のしつこく嘗め回すような文章を公開したところで、読者も喜ばないだろう。かえって、ヌードの魅力を貶めてしまうかもしれない。

 というわけで、着衣という条件からぱっと思いついたのは、イワン・クラムスコイ「忘れえぬ女」だ。

 

https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/c/ce/Kramskoy_Portrait_of_a_Woman.jpg

 この作品は少なくとも二度来日しており、その二回ともみる機会があったのだけれど、自分の気分が変わったせいか、受けた印象がまるで異なっていた。最初に見たときは、傲然とした軽蔑の念を感じ取ったのだが、次に見たときにはどことなく悲哀と不安を感じた。なにか、味方や仲間を欲しがっている孤独な女性のように見えたのだ。

 イリヤ・レーピンの作品もいい。たぶん同じ展覧会で見た。

 

www.art-catalog.ru

 「ゴーゴリの『自殺』」という絵画は、未完成の「死せる魂」第二部の原稿を暖炉にくべている様子を描く。クリエイターが自分の作品を葬り去る場面というのは、ストーリーとしては使いやすいと思う。

 提出を求められているのはラストシーンだけだ。だが、忘れてはいけないのは、その背後にはあくまで主役となるストーリーがあるということだ。なので、どのような話の果てに、その絵画が出てくるかを考えてからではないと、具体的な描写方法や文体は決められないだろう。その場の気分でおどろおどろしい絵画の描写をしたはいいけれど、やっぱりイチャイチャラブストーリーを書きたい、ってことになったら、目も当てられない。

 

 以上。

*1:記憶が曖昧だが「ニーベルンゲンの歌」も、感情の方向が四人で円環を作っていたような。

*2:関係ないけれど、ナボコフを何冊か読んでみて思ったのは、僕はそこまでナボコフが好きじゃないかもしれないってことだった。